声を低くして

初音の声は高くなると、母に似る。

怒っているときではない。怖がっているときほど、語尾が細く上がる。あの声を聞くと私は玄関の鎖を確かめ、カーテンを閉めずにはいられない。

だから逃げた部屋では、声を低くする練習をさせた。

「助けて」ではなく「大丈夫です」。

「嫌だ」ではなく「検討します」。

感情を悟られなければ、母に見つかっても隙を与えない。初音が友人へ電話するときも、私は隣で音量を測った。声が高くなる相手は危険だと判断し、番号を着信拒否に入れた。初音は毎晩、私のスマートフォンへ向かって十回ずつ繰り返した。私は録音を保存し、上手に言えた日は丸を付けた。丸が三日続くと母は〈ご褒美〉と送金してきた。その金で家賃を払っていることを、初音には教えなかった。

「これ、誰かに聞かせるの?」

「自分で変化を確かめるためだよ」

嘘ではない。聞くのは私たちのことを一番よく知る人だ。

母とは、逃げた日から会っていない。ただし、毎晩九時に音声を送る約束だけは守っていた。居場所を教えなければ、母も騒がない。初音が反抗せず暮らしていると分かれば、追ってこない。

母から返るのは短い言葉だった。

〈もっと低く〉

〈泣かせてから録りなさい〉

〈環は本当にいい子ね〉

私はそれを指導だと思った。母は初音の扱いを知っている。私は幼いころから、妹が泣いた理由と謝った回数を報告して褒められてきた。家を出ても、その役目だけは身体に残った。初音が私を怖がるほど、母は安心した。逃げる前も、私が報告を怠ると二人とも罰を受けた。

ある夜、初音が録音の途中でスマートフォンを奪った。画面には母とのやり取りが開いたままだった。

「まだつながってたの」

責めるような声が高く響いたので、私は反射的に頬を打った。

初音は何も言わず、上着だけ持って部屋を出た。追いかけようとしたが、九時の通知音が鳴った。

母からだった。

〈今の音、よくできました〉

私は録音を再生し、初音の最後の声に丸を付けた。