夜の鍵盤
調律師の冴士が帰宅するのは、たいてい夜遅い。
玄関を開けると、猫の「ハ音」が先に仕事部屋へ走る。古いアップライトピアノの椅子へ飛び乗り、鍵盤の蓋が開くのを待つ。
冴士は毎晩、一音だけ鳴らす。今日調律した最後の音を家でも確かめるためだ。
低いラの日も、高いミの日もある。ハ音は音が消えるまで耳を前へ向け、そのあと餌をねだる。
ある夜、冴士は何も鳴らさなかった。依頼先の演奏会場で、調律後に客から音が硬いと言われた。長く続けてきた仕事なのに、自分の耳が信用できなくなった。
ハ音は椅子で待っている。
「今日は休み」
冴士が背を向けると、猫は鍵盤へ飛び乗った。蓋は開いていた。前脚が三つの音を同時に鳴らす。
濁った、不格好な和音だった。
ハ音自身も驚き、尾を膨らませて床へ下りた。
冴士は久しぶりに声を出して笑った。もう一度、今度は自分で同じ三音を押す。よく聞けば、そのうち一音がほんの少し低い。
翌朝、出勤前に調整した。フェルトと木、金属の匂いの中で、音がゆっくり重なる場所を探す。
その夜は高いドを一音だけ鳴らした。ハ音はいつも通り聞き、餌皿へ向かった。
冴士は鍵盤の上に残った小さな肉球の跡を布で拭いた。磨いた象牙調の表面には猫の体温がわずかにあり、消えた音の代わりに、乾いた毛と木の匂いが指先へ残った。
仕事場で迷った日、冴士は帰宅後に三音の和音を鳴らすようになった。ハ音が偶然作った組み合わせだ。正しい調律の確認にはならないが、自分の耳を仕事から家へ戻す合図になる。猫は最初こそ驚いたものの、今では三音目が消える前に餌皿へ歩き出す。ある晩、冴士は音を鳴らさず、猫の喉へ耳を寄せた。規則正しくはなく、時折途切れる。それでも調整しようとは思わなかった。生きた温度で震える音は、そのままで部屋によく響いた。
その晩の餌を食べ終えたハ音は、鍵盤の下へ戻った。冴士が蓋を閉じると、最後の振動が木へ消える。猫の耳だけが、しばらく同じ方向を向いていた。