婿入りは餡のあと
江戸は神田の裏長屋に、桐生半十郎という浪人がいた。剣の腕は立つが、懐は立たぬ。三日ぶりの飯が茶碗に映った自分の顔、という有様である。
ある日、評判の饅頭屋「福々堂」の娘、お糸が半十郎を店の奥へ招いた。
「半十郎さま。前々から、お慕い申しておりました」
「な、何と」
「力が強く、まじめで、毎朝店の前を通るお姿を見ておりました」
「拙者を、そこまで」
「父も、半十郎さまならうちに入ってよいと」
「父上まで!」
半十郎の頭には、白無垢のお糸と、福々堂を継ぐ自分の姿が浮かんだ。腹も鳴った。恋と饅頭の香りは、人を大胆にする。
「お糸殿。貧乏浪人の拙者でよければ、生涯大切にいたそう」
「ありがとうございます! では明朝、寅の刻に」
「ずいぶん早い祝言だな」
「餡を練るのは朝が勝負ですから」
「餡?」
お糸が差し出したのは三つ折りの奉公人募集札だった。
『年末繁忙につき、餡練り係一名。まかない、饅頭二個つき』
「婿の話ではないのか」
「人手の話です」
「『お慕いして』は」
「餡を焦がさぬ集中力を」
「『うちに入る』は」
「店に」
「『生涯大切に』と申したのだぞ」
「道具を? ありがたいです」
半十郎は恥ずかしさのあまり切腹を考えたが、腹が減りすぎて刀を抜く力もない。結局、翌朝から福々堂で働いた。
ところが剣で鍛えた腕は餡練りに向いていた。半十郎の餡はきめ細かく、饅頭は飛ぶように売れた。三か月後、店主が酒を注いで言った。
「半十郎さん。そろそろ本当に、うちへ入らんか」
「また奉公の勧誘か」
「いや、婿に」
「信用できぬ」
「では、お糸から」
お糸は赤くなり、今度は何も書いていない紙を半十郎へ渡した。
「募集札ではありません。私の気持ちです」
「白紙だが」
「口で申します。半十郎さまが好きです。夫婦になってください」
「勤務条件は?」
「朝は早く、年末は忙しく、饅頭は一日二個まで」
「恋愛の条件は?」
「一生、私の隣です」
半十郎は即座に承知した。
のちに福々堂では「縁結び饅頭」が名物となった。ただし半十郎は客に由来を聞かれるたび、「餡と話は、よく練らねば取り違える」とだけ答えたという。