安全ピンの幕間
【開演十五分前】
牧瀬圭は、楽屋の裁縫箱から大きな安全ピンを一本つまんだ。銀色の頭に、赤いマニキュアが点のようについている。高校の演劇部で使っていたものだ。
今夜、圭は欠席した役者の代わりに舞台へ立つ。社会人になってから照明係として参加していた劇団で、役者を頼まれたのは初めてだった。断る言葉を三つ考えて来たのに、衣装を渡された瞬間、どれも口から消えた。台詞は七つ。客席は五十席。それでも手が冷たかった。
【七年前・最後の公演】
幕が上がる直前、主役のスカートが腰から裂けた。衣装係だった圭は、震える布を舞台袖へ引き寄せ、安全ピンを三本打った。一本の頭に、暗転でも見つけられるよう赤いマニキュアを塗った。
二幕目、主役が台詞を忘れた。
舞台の中央で沈黙が膨らんだ。照明の熱で埃が白く浮き、袖の暗がりには、主役の荒い息だけが届いた。圭の掌では、余った安全ピンが汗で滑った。客席が咳払いさえやめる。圭は袖から、次の台詞の最初の一語だけを囁いた。
「だから――」
主役の目が動いた。
「だから、私はここを出ていく」
物語は再び進んだ。安全ピンで留めた裾が照明を受け、銀色に瞬いた。
終演後、役者たちは舞台上で写真を撮った。圭は床のテープを剥がし、延長コードを巻いていたため写らなかった。最後に一人で客席を見たとき、赤い座席はすべて跳ね上がり、舞台だけが取り残されていた。照明を落としたあとも、床板には昼の熱が残っていた。衣装から外したピンのうち、赤い印の一本だけが圭のポケットに残り、返しそびれた。
舞台に立ちたいと思わなかったわけではない。ただ、誰かの物語を止めない役の方が、自分には似合うと決めていた。
【現在・開演一分前】
衣装の脇が少しゆるい。圭は赤い印の安全ピンを使いかけ、やめた。衣装は新しいピンで留め、古い一本は胸ポケットへ入れる。
舞台監督が指を一本立てた。暗転。客席の話し声が波のように引く。
最初の台詞は、「お待たせしました」だった。
圭は袖の床に引かれた白線を越える。高校最後の日、越えなかった線だ。
照明が点く。
今夜は、自分の声で物語を進める番だった。