家が忘れる娘
玄関の梁から名前を削れば、その人は家の支配から自由になる。ただし家の中にいる者は、削られた人を家族として思い出せなくなる。
ネイサは小刀の刃を、梁の端へ当てた。
そこには家族五人の名が刻まれている。父、母、兄、妹、そして自分。生まれた日に刻まれた名は、家へ帰るための鍵であり、家長の命令に逆らえない鎖でもあった。
「明日の縁談には出なさい」
背後で父が言う。「この家に生まれた娘の務めだ」
ネイサは返事をしなかった。梁に名がある限り、命令は夜明けに身体を動かす。嫌だと思っていても、指定された衣装を着て、指定された馬車に乗る。
削れば自由になる。
その代わり、今この家にいる母と妹は、ネイサを忘れる。
母は父の前で一度も彼女を庇わなかった。けれど夜になると、鍵のかかった寝室へパンを差し入れてくれた。妹のラウドは、廊下の床板を三回鳴らし、「まだ起きてる?」と合図した。二人を責めることも、置いていくことも、同じくらい苦しかった。
「姉さん」
階段の陰から妹が覗いた。小さな旅袋を抱えている。「持っていって。靴下と、母さんの薬と、私の青いリボン」
「薬はあなたが使うのよ」
「じゃあリボンだけ。忘れないで」
忘れるのはネイサではない。そう言えなかった。
父が腕をつかもうとする。梁の名が熱を持ち、膝が勝手に縁談の部屋へ向こうとした。
ネイサは最初の一画を削った。
足が止まる。
二画目で、父の指が腕から滑った。彼にはもう、命令すべき娘が誰なのか分からなくなり始めている。
三画目。母が台所から出てきた。「何の音?」
妹が不安そうにネイサと梁を交互に見る。
最後の一画だけが残った。ここで刃を止めれば、明朝には馬車へ乗せられる。削れば、妹の中から、二人で毛布に潜って笑った夜も消える。
「リボン、結んでくれる?」
ネイサは妹へ背を向けた。
ラウドは青い布を髪に結び、いつものように少し曲げた。「帰ってきたら直してあげる」
ネイサはその言葉を背中へしまい、小刀を引いた。
木屑が一片、床へ落ちる。
妹の手が髪から離れた。
「……あなた、誰?」
家の扉がひとりでに開いた。外の風が、初めて命令ではなくネイサの頬を押した。