寂しさで灯る宿

 山道の宿《灰の角》では、薪を使わない。

 炉の中に棲む赤い精霊が、宿主の寂しさを食べて燃えるのだ。食べられた寂しさは二度と戻らず、その夜の客は皆、自分の家にいるような温かさを得る。

 タリサは十九歳で宿を継ぎ、七年、毎晩炉へ手を差し出してきた。

 吹雪で家族を失った夜の寂しさ。初めて一人で帳簿を閉じた夜。祭りの音だけが谷から届いた夜。

 精霊はよく食べ、旅人たちはよく眠った。

「こんな宿はほかにない」

 薬売りのヴァスクは、季節ごとに同じ窓辺の席へ座った。

 彼だけは朝になると、必ずタリサへ「また来る」と言った。宿の温もりが魔法だと知ってからも、その約束を変えなかった。

 今夜、峠は春の雪で閉ざされ、避難してきた十二人が広間に身を寄せている。

 炉の火は弱かった。

「残りが少ない」

 赤い精霊が灰の下で呟く。

「おまえは、もう一人でいることをほとんど寂しいと思わない」

 確かにそうだった。

 客が帰ったあとの椅子も、二人分には広すぎる寝台も、ただの家具に見える。寂しさを失うたび、誰かにそばにいてほしいという願いまで薄くなった。

 ヴァスクが荷物から二枚の乗船券を出した。

「海辺の町で店を開く。君にも来てほしい」

 何年も待っていたはずの言葉だった。

 胸の奥に、小さな寂しさが一つだけ動く。

 彼を断れば、次はもう来ないかもしれない。その未来を思うと、冷たい針ほどの痛みがあった。

 炉のそばでは、濡れた母親が赤子を抱いている。老人の唇は紫色で、子どもたちは互いの肩を抱いて震えていた。夜明けまで火が消えれば、宿は氷の箱になる。

「それが最後だ」

 精霊が火の舌を伸ばす。

「食べれば、あの男が去っても、おまえは平気になる」

 ヴァスクは何も急かさなかった。

 乗船券を一枚、帳場に置く。その指先だけが震えていた。

 タリサは、寂しさとは不幸ではなく、誰かを求めるための空席だったのだと初めて知った。

 その席を埋める未来を選ぶこともできる。

 けれど炉の火が、また一つ消えた。

 彼女は最後の寂しさを両手ですくい、灰へ落とした。

 炎が天井まで立ち上がり、客たちの頬に色が戻る。

 ヴァスクが静かに目を伏せた。

 胸の空席は消えていた。タリサは乗船券を見ても、もう行きたいと思えなかった。

「朝まで、ここにいて」

 それが恋人への願いだったのか、客への挨拶だったのか。

 彼女自身にも、分からなくなっていた。