寸胴の底の火
ラーメン店「北十字」の店長が救急車で運ばれたあと、寺島景都と中条は、火にかかった寸胴を見つめていた。豚骨も野菜も、朝から煮ている。火を止めれば明日の仕込みはない。続ければガス代が増える。
「焦がしたら全部終わる」
中条が長いへらを寺島へ渡した。
「もう終わりかけてますけど」
寺島は先月、レジ金が合わなかった夜に疑われた。犯人扱いされたわけではない。ただ、中条が全員の鞄を確認した。その手順が許せず、二人は必要な会話しかしなくなった。結局、金は店長の集金袋から見つかった。
寺島が底をさらい、中条が浮いた脂をすくった。湯気で顔が見えなくなる。厨房の時計は午前零時を過ぎ、客席の椅子は逆さに上げられていた。
「店長、戻れないかもしれないな」
「医者じゃないんで分かりません」
「店の話」
「それも銀行じゃないんで」
中条が笑った。寺島は、半年ぶりにその音を聞いた。
スープは煮詰まりすぎていた。二人で別鍋へ移し、水と昆布を足す。味見をしては首を傾げ、醤油だれを一滴ずつ増やした。寺島の舌が塩を拾い、中条の鼻が焦げ臭さを確かめる。どちらか一人では決められなかった。
午前三時、火を落とした。明日の分には足りる。明後日はない。店長の入院費も、滞納した家賃も、そのままだ。
中条は麺を二玉ゆでた。寺島が「売り物でしょう」と言うと、「味を決めた人間が食わずにどうする」と返した。具は端切れの叉焼と葱だけだった。
食べ終えるころ、中条はレジ下から透明な封筒を出した。中には、寺島が以前返した裏口の鍵が入っていた。封筒には「予備」とだけ書かれている。
「俺、辞めるって言いましたよね」
「聞いた。退職日はまだ聞いてない」
寺島は鍵を受け取らず、封筒ごと調味料棚へ戻した。だが帰るとき、シャッターを下ろしたのは彼だった。鍵は封筒から出し、いつもの右ポケットへ入っていた。
始発まで二時間ある。寺島は客席の長椅子へ横になった。寸胴の余熱が、薄い壁越しに、朝まで背中へ残っていた。