左手で閉じる服

狩野沙英は、転職前最後のサンプル会議で、自分の右手を背中へ回した。

机にあるのは、〈誰でも着やすい〉を売り文句にした新作ブラウス。柔らかな布と淡い色で、広告写真だけなら確かにやさしく見える。けれど、やさしさは見た目ではなく動作の中にある。脇の細いファスナーを左手だけで上げようとすると、布がねじれ、途中で止まった。

「モデル撮影では普通に着られました」

商品担当が言う。モデルは両手を使っていた。モニターには、片方の腕を動かしにくい人にも勧められる、と広告文が入っている。試着協力者から以前届いた〈脇の金具へ手が届かない〉というメモは、発売後の改善候補というフォルダへ移されていた。

後輩のパタンナーは、指定された位置へファスナーを付けただけだった。沙英は彼女から仕様書を受け取り、責任者欄が空白なことを確かめた。

「縫った人のミスではありません。着やすさを、着る人に試してもらわず決めています」

発売日は三日後。責任者は広告文だけ少し弱めて出そうとした。沙英は量産指示を止め、前中心へ大きめのリング付きスライダーを移す修正案を出した。片手でも裾を押さえず開閉できるよう、内側に固定タブも付ける。後輩には、自分の利き手を使わず試着してもらった。二度目は最後まで閉じた。布が胸元でねじれず、リングは指一本でもつかめた。後輩は鏡の前で何度か開閉し、今度は広告文を自分から読み直した。

沙英は仕様書へ、想定する動作と試着者の条件を書く欄を加えた。〈簡単〉〈やさしい〉という言葉を使う場合は、実際の利用者による確認を必須にする。広告写真にも、着せてもらう場面ではなく、自分で開閉する手元を入れるよう指示した。

会議のあと、部長は沙英を呼び止めた。

「来月から主任にする予定だった。小さな会社へ行かなくても、ここで福祉ラインを作ればいい」

沙英は少し迷った。肩書は欲しかった。でも、売る直前に着やすさを足すのではなく、最初から着る人と作る場所へ行くと決めたのだ。

転職先の契約書には、利用者テストの予算と、デザイナーが現場へ同行する日数が明記されていた。沙英は修正版サンプルを提出し、部長へ主任昇格の回答書を返した。帰りの電車で、転職先の利用者試着会に〈第一回から参加〉と登録する。

左手だけでファスナーを上げた感触を、次の仕事の基準にした。