帰ると言えない婚姻届
魔法の婚姻届へ署名すれば、身分を一つだけ書き換えられる。
代金として、署名者は自分で選んだ言葉を一つ、生涯口にできなくなる。
ホルネアが書き換えたいのは、ガロムの身分だった。
〈魔族捕虜〉を〈王都民〉へ。
彼は三年前から製粉所で働き、火事の夜には子どもを五人背負って逃げた。それでも角があるというだけで、明朝、北の鉱山へ送られる。王都民の配偶者なら追放できない。その抜け道を見つけたホルネアは、役所が閉まる直前に婚姻届を持ち込んだ。
「俺と結婚すれば、店の客が消える」
ガロムは粉まみれの作業着で、受付台から離れようとした。
ホルネアは一人で営む代書屋を思い浮かべた。読み書きのできない職人の手紙を書き、離婚状や借用書を整える仕事。魔族の妻に文書を預ける者はいないだろう。
契約は一年。追放令が失効したら離縁する。店を失っても、また別の仕事を探せる。
「言葉は何を払う?」と役人が尋ねた。「愛、家族、助けて。重い言葉ほど、魔法は確実に働く」
軽い言葉を選べば、書き換えが途中でほどけることがある。
ホルネアは迷わず一語を書いた。
ガロムが紙を覗き、顔色を変えた。
「駄目だ。それは君が一番よく使う言葉だ」
代書屋へ来る客は、帰れない人ばかりだった。戦地の夫へ手紙を書く妻。勘当された娘。故郷の文字を忘れかけた老人。ホルネアは文章の最後に、いつも同じ一文を添えた。
――無事に帰ってきてください。
幼い頃、旅商人だった父にも書いた。父は帰らなかった。それでも、誰かへその言葉を書くたび、閉まった扉の向こうに灯りを置ける気がした。
「別の言葉にしろ」とガロムが言う。「俺は鉱山から逃げる」
「逃げれば、あなたを匿った人まで罰せられる」
「君が払う理由はない」
「私は言葉を売って生きてきたの。だから一つくらい、自分で使い道を決めたい」
ホルネアは〈帰る〉と書いた代価欄へ、署名を重ねた。
文字が金色に燃え、捕虜票の鎖がガロムの手首から落ちた。
彼が震える声で「いつか店へ戻ろう」と言った。
ホルネアは、もう発音できない一語の形だけを唇で作った。