帰宅ボタン

絢音は位置情報を共有しない。柚葉は、帰宅予定を必ず同居アプリへ入れる。

「監視みたいで嫌」

「事故があったとき困る」

その議論は、ルームシェアを始めた月から平行線だった。

金曜の夜、私鉄が信号故障で止まった。絢音は在宅勤務を終え、柚葉は夕食の鍋を温めていた。ニュース画面には、駅の外まで続く人の列が映っている。

絢音の職場の新人、翠からメッセージが届いた。

〈知らない人がずっと後ろにいます。電車ないです〉

位置情報のピンは、二駅先の繁華街だった。電話をかけても出ない。

「警察に連絡してもらう」

絢音が打つ。柚葉はタクシーアプリを開いた。

「迎えに行こう」

「場所も正確じゃないし、巻き込まれるかもしれない」

「だから二人で」

絢音は、柚葉の即断がいつも苦手だった。誰かの不安まで自分の責任にする生き方は、長く続かないと思っている。柚葉は、絢音の慎重さを冷たさだとは思わないが、決めるまでが長すぎると思っている。

絢音は、新人を私生活まで面倒見ることは管理ではないと思っている。柚葉は、肩書がなくてもその場で近い人が動けばいいと思っている。どちらも翠を子ども扱いしたいわけではなかった。

翠から二通目が来た。

〈コンビニに入りました。男も外にいます〉

絢音は鍋の火を消した。柚葉は部屋着の上からコートを羽織る。二人とも、もう議論を続けなかった。

タクシーは捕まらない。自転車なら十五分だが、夜道で三人は乗れない。絢音が地図で交番とコンビニの距離を測り、柚葉が翠へ「店員さんに声をかけて」と送る。

「徒歩で行って、帰りは三人で配車を待つ」

絢音が言う。

「了解」

柚葉は同居アプリを開き、帰宅予定を未定に変えた。絢音は一瞬迷い、自分の画面にも同じアプリを入れた。

位置情報の共有は一時間だけ。柚葉は条件を読まずに承認し、絢音は時間制限を確かめて承認した。

絢音は身分証とモバイルバッテリーを持ち、柚葉は翠が履けるかもしれない予備の靴を紙袋へ入れた。鍋はふたをしたまま、冷めるに任せた。

玄関を出る前、二人の画面に同じ緑のボタンが表示された。

〈迎えに行く〉

絢音と柚葉は、ほとんど同時にそれを押した。