廊下で眠る影

集合住宅では、影を寝室へ入れてはいけない。

二十二時になったら玄関灯をつけ、影を廊下へ出す。朝六時、新聞と一緒に回収する。影が別の部屋の前で眠っていても、起こしてはならない。三晩続けて同じ場所へ行った場合、その部屋の住人へ影用の合鍵を渡す。

羽倉冬馬の影は、四〇三号室の前で眠るようになった。

そこには真柴灯里という女性が一人で暮らしていた。会えば会釈する程度で、名前も宅配ボックスの表示で知った。冬馬は在宅勤務で、昼間に人と話すのは画面越しだけだった。廊下で彼女の買い物袋を持った一度きりの会話を、妙に長く覚えていた。

一晩目、影は四〇三のドアマットに丸くなっていた。二晩目は膝を抱える形。三晩目には、灯里の影も内側からドアの下へ伸び、二つが指先だけを重ねていた。

管理規約どおり、冬馬は影用の合鍵を渡した。人間用の鍵より薄い黒板のような鍵で、昼のうちに四〇三の郵便受けへ入れる。灯里は驚かず、翌日エレベーターで会うと「預かります」と言った。

それから冬馬の影は、毎晩四〇三へ入った。朝六時には自分の玄関前へ戻り、知らない香りをまとっていた。焼いたパン、柑橘の洗剤、雨に濡れた本。冬馬本人の部屋には、インスタントコーヒーと新しい家具の匂いしかない。

灯里とは少しずつ話すようになった。ゴミ出しの曜日、近所のパン屋、宅配便の誤配。影たちが先に暮らしを共有しているせいで、人間同士の会話はいつも後追いだった。

ある朝、四〇三の表札が外れていた。引っ越し業者が荷物を運び、灯里は「急に転勤が決まって」と言った。冬馬は連絡先を聞こうとしたが、影用の合鍵は退去日の夜に返却される決まりだった。それを受け取ってからが順序だと思い、言葉を飲んだ。

夜、影を廊下へ出す。冬馬の影は空になった四〇三へ入った。朝六時になっても戻らない。管理人は「退去後の部屋で眠った影は、新しい住所が決まるまで置いておけます」と言った。

冬馬は仕事を休み、四〇三の前に座った。ドアは開かない。昼を過ぎると、室内からパンの焼ける匂いがした。

夕方、郵便受けから影用の合鍵が落ちた。鍵には白い糸が結ばれ、糸の先に小さな紙がついている。灯里の新住所ではなく、冬馬の部屋番号が書かれていた。

その夜、玄関前には二足の影用スリッパが並んでいた。片方には細かな煤が、もう片方には乾いたパン屑がいっぱいに詰まっていた。