影が追いつくまで
こよみは地下街の化粧品店で働いていた。朝は地下鉄、昼も地下、帰りは駅直結の通路。休みの日も地下街の映画館へ行き、地上へ出ずに一日を終えることがあった。季節はショーウインドーの色で知り、天気は客の傘で知った。春の新色を勧めながら、本物の桜を見ない年もあった。照明に照らされた肌には詳しいのに、日なたの自分の顔を長く見ていない。
二十八歳になってから、転職サイトを毎晩見るようになった。けれど応募ボタンは押せない。今の仕事が嫌いなのか、ただ疲れているのか、自分でも分からなかった。
ある昼休み、地下広場で旅人が人々の影を数えていた。頭には鏡を縫い合わせた帽子、足には登山靴。天井の照明の下では影が何本にも割れ、旅人は一本見つけるたび、チョークで床に印をつけた。
「ここに太陽はありませんよ」
こよみが言うと、旅人はうれしそうに振り向いた。
「だから、影が迷っています」
旅人は黄色いチョークを一本渡した。
「今日、自分の影が一つになるまで、外に立ってください」
「休憩はあと十五分です」
「影に勤務時間はありません」
それ以上、旅人は説明しなかった。床に散った影を追いかけ、閉鎖中の通路へ消えていく。
こよみはチョークを制服のポケットに入れた。外へ出るには、階段を二つ上がり、信号を渡らなければならない。戻る頃には昼食を食べる時間がなくなる。
いつもなら、休憩室で栄養バーをかじりながら求人を見る。今日もそうしようとして、スマートフォンを開いた。画面には「新しい環境で輝くあなたへ」という広告。自分の顔だけが、黒い画面の端に薄く映っていた。
こよみは栄養バーをポケットに戻した。
地上へ出ると、冬の光が思ったより白かった。目が慣れるまで、こよみは何度も瞬きをした。ビル風にスカートを押さえ、歩道の端に立つ。最初は街路樹や標識の影と重なっていた自分の影が、数歩動くと足元から一本に伸びた。
何も答えは出ない。仕事を辞めたいのかも、まだ分からない。ただ、頬に当たる冷たさを、自分が長く知らなかったことだけは分かった。
休憩終了まで八分。こよみは店へ急がず、黄色いチョークで影の先に小さな丸を描き、日なたのベンチに腰を下ろした。