影だけが帰還した
敵城の門は、厚い黒鉄で閉ざされていた。
斥候ノクシアは壁に背をつけ、悪魔ヴァルクと交わした契約を思い出す。息を止めているあいだ、身体は石も鉄も通り抜ける。ただし一度心臓が鳴るたび、肉の一部が影へ変わり、元には戻らない。
門の向こうには開閉機がある。味方の突撃まで、百を数える猶予しかない。
ノクシアは深く息を吸った。
壁へ踏み込む。
最初の鼓動で、左足の小指が影になった。感覚が消え、靴の中が軽くなる。
二度、三度。脛と膝が薄れていく。石の内部は冷たい闇で、進む方向は分からない。彼女は肩で壁の傾きを読み、前へ進んだ。
十度目には左脚が丸ごと影になった。それでも影は彼女の動きを真似て、見えない床を踏んだ。
鉄板へ入る。鼓動は速くなった。
右腕が影へ変わり、剣を持てなくなる。腹の半分が薄れ、肋骨の輪郭が月明かりに透けた。息を吐けば、壁の中で実体へ戻り潰される。
二十七度目の鼓動で、顔の左半分が影になった。片目から光が消える。
ようやく鉄を抜け、門内へ転がり出た。敵兵が振り返る。ノクシアは残った右脚で跳び、影の腕を開閉機の鎖へ絡めた。
影には重さがない。だが契約によって、影になった肉の重さだけは鎖へ残る。失った身体すべてが一度に引き下ろされ、歯車が回った。
黒鉄の門が上がる。
外から味方が雪崩れ込み、敵兵を押し返した。隊長エグナが開閉機へ駆け寄る。
「ノクシア!」
返事はない。
床には、人の形をした影が横たわっていた。輪郭の右胸だけがわずかに盛り上がり、最後の心臓が一度鳴る。
どくん。
その膨らみも平らになった。
戦いが終わった夜、エグナは影を布へ移そうとした。だが指は何もつかめない。松明を向けても、影は薄くならず、城門へ向けて片手を上げた形のまま残った。
味方は勝利の功労者を探した。名簿にはノクシアの名がある。しかし帰還者の列に、彼女の身体はなかった。
翌朝、太陽が城壁を照らしても、門の内側に一つだけ夜が残った。
それが誰の影かを知るエグナは、毎日そこへ名を呼びかけた。
影は答えない。ただ夕暮れになると、ほんの少しだけ、帰る道の方へ長く伸びた。