恋人欄は空白
夜間診療の会計窓口が閉まるまで、あと九分だった。
井筒玲実は、大河内智哉の退院書類を記入していた。急性胃炎で点滴を受けた智哉は、まだ顔色が悪い。迎えに来られる人が玲実しかおらず、病院から電話を受けて駆けつけた。
〈患者との関係〉の欄で、ペンが止まる。
家族、配偶者、恋人、友人。玲実は最後の丸を塗った。
「友達でいいんだ」
「友達でいいでしょ」
智哉とは一年近く、週に三度は会っていた。互いの家へ行き、誕生日を二人で過ごし、眠れない夜には電話をつないだ。玲実の部屋には智哉の歯磨き粉があり、智哉の冷蔵庫には玲実だけが飲む炭酸水が並んでいた。それでも玲実は、付き合っているとは言わなかった。
名前をつけると、役割が生まれる。毎日連絡するべき、記念日を祝うべき、将来を考えるべき。両親は「夫婦だから」と言いながら二十年傷つけ合い、別れる勇気を持てなかった。玲実には、関係の名前が鎖に見えた。だから智哉が何度尋ねても、今のままでいいと答えた。
窓口から「八分で締めます」と呼ばれる。智哉は書類を取り上げず、友人の文字を見ていた。
「具合悪いときに呼ぶのは俺で、呼ばれたら来るのは玲実なのに?」
「そのほうが楽だから」
「楽なら、なんで泣きそうなの」
逃げ道のない廊下だった。タクシーは正面玄関に着き、待機料金が始まっている。
玲実は、関係を決めた瞬間から終わりを数える自分に気づいた。名前が怖いのではない。名前を失う日が怖かった。
「友達でいいと思ってた。友達なら、なくさずに済むと思ってた」
智哉は「恋人に直して」とは言わなかった。ただ、ふらつきながら立ち上がり、自分の荷物を持とうとした。
玲実は書類の〈友人〉に一本線を引いた。〈その他〉へ丸をつけ、その横に〈いちばん近い人〉と書く。会計へ提出し、智哉の上着と薬の袋を自分の腕へ掛けた。
タクシーの後部座席で、玲実は先に降りる自宅の住所を告げなかった。車が智哉の部屋へ向かうあいだ、空白だった欄の代わりに、二人の肩が触れたままだった。