拍手を一つ

鷺森慧悟は音響会社の社員で、山中の神楽を高音質配信する仕事を引き受けた。映像は固定、音だけが売りの企画だった。

祭りは七年に一度の「空座神楽」。舞台中央に誰も座らない椅子を置き、笛と太鼓だけを夜明けまで奏でる。録音許可証の裏に、宮司の字で注意があった。

《祭囃子が止んだあと、拍手を一つだけ返してはいけない》

慧悟はスタッフへ共有した。冗談半分で「拍手するなら二回以上」と言うと、宮司は笑わなかった。

配信は順調だった。マイク八本、回線二系統、視聴者三千人。空座だけを狙った集音マイクには、演奏の合間ごとに衣擦れと浅い呼吸が入った。慧悟がノイズ除去すると、その音だけ元に戻った。午前三時、曲が突然途切れた。演者全員が撥を下ろし、空座を見た。

山の奥から、ぱん、と一度だけ拍手が響いた。

コメント欄が《アンコール?》《誰かいる》と流れる。慧悟は演奏終了の合図だと思い、スタッフへの労いのつもりで手を打った。

ぱん。

規則を破ったのは、その一度だけだった。

ヘッドホンの左から慧悟の拍手、右から半拍遅れて別の拍手が返った。波形モニターには、人の手では出せない低い音が二つ重なっていた。二つ目の波形には《受領》という文字に似た規則的な切れ目があった。空座の椅子が、誰も触れていないのに慧悟のほうを向いた。

配信は強制終了した。宮司は何も責めず、空座の椅子へ白い布を掛け、「返されたから、次は受け取る」とだけ言った。

帰りの電車で、慧悟のスマートウォッチが振動した。

【ワークアウトを記録しました】

種目:拍手

参加者:2名

継続時間:7時間13分

停止を押しても、参加者の片方が継続中のままだった。

自宅へ着く直前、留守番用カメラから音声検知の通知が来た。映像は暗い空室。中央に置いた仕事椅子だけが、玄関を向いている。

スピーカーから、ぱん、と一度鳴った。

ウォッチが再び震えた。

【相手があなたの拍手を待っています】

慧悟の両手が、意思に反してゆっくり近づき始めた。