指輪の跡に触れないで
佳澄は同窓会の三日前に婚約指輪を外した。
左手の薬指には薄い跡が残り、ホテルの照明の下でだけ白く見える。受付で再会した同級生たちは、結婚した人の名字や子どもの年齢を聞き合っていた。佳澄はグラスを持つ手を右に替えた。
高校時代、佳澄は「一番に結婚しそう」と言われていた。卒業式後の教室では、細い輪ゴムを指輪に見立てて、友人たちが未来を占った。
「佳澄は二十五で結婚。白い家。犬二匹」
窓際の席で笑いながら、佳澄もそれを信じた。未来には決まった形があり、早くたどり着くほど正解なのだと思っていた。
二十八歳の今、式場を解約し、二人で選んだ部屋も出る。理由を説明すれば誰かが悪者になるようで、まだ家族にも「延期」としか言っていない。
会場では近況報告のカードが配られた。「仕事」「家族」「今年の目標」の三欄。佳澄は空白のまま窓際へ逃げた。
「書かなくてもいいんじゃない」
隣に立った朔は、薬指を見なかった。高校の頃も、輪ゴム占いに参加せず、窓を開けていた人だ。
「みんな、聞きたいと思う」
「聞きたいことと、答える義務は別だよ」
その一言で、佳澄はようやく左手をテーブルへ置いた。跡は消えなかったが、誰も騒がなかった。
カードの家族欄には何も書かず、今年の目標に「引っ越す」と記した。逃げるのではない。自分の机と、自分のカーテンを選ぶための引っ越しだ。
帰り際、壁にカードを貼るよう促された。幸せな報告ばかり並ぶ中、佳澄の「引っ越す」は頼りなく見えた。それでも剥がさなかった。
ホテルの洗面所で手を洗うと、温かい水の中で指輪の跡が少し赤くなる。佳澄はそこへ触れず、濡れた両手を同じように乾かした。
外へ出て、不動産会社へ内見希望を送る。
カードの前で立ち止まった同級生が、「新しい部屋、決まったら写真を見せて」とだけ言った。祝福は、完成した人生にだけ届くものではなかった。
過去に約束した白い家ではない。まだ形のない部屋へ、自分の足で帰るためだった。