掃除機が壁に触れるたび

及川の隣では、午前零時にロボット掃除機が動き出す。

 低い回転音が壁に沿って近づき、こつ、と一度ぶつかる。少し向きを変え、遠ざかり、また戻ってくる。四十五秒ほどで同じ場所へ来るので、及川は時計を見なくても時間の流れが分かった。

 自分の部屋には、掃除機を走らせる床がなかった。

 引っ越して一か月。開けていない箱、脱いだ服、読みかけの本、宅配便の緩衝材。仕事が忙しいと言い訳しながら、ベッドから玄関までの細い道だけを残して暮らしていた。

 天井の照明は一つ切れかけ、時々かすかに明滅する。エアコンの風は積んだ紙袋を揺らし、窓の外では雨が室外機の天板を叩いていた。

 隣の掃除機が、また壁へ触れた。

 こつ。

 及川は床の靴下を一足拾った。その下から、引っ越し初日に見失ったヘアピンが出てきた。次は読みかけの本を一冊閉じ、空箱へ立てる。片づけるたび、埃の匂いと紙の乾いた音がした。部屋は急には変わらないが、手を置ける場所が一つずつ戻った。壁の向こうでブラシが回るたび、こちらの床にも短い区切りができた。洗濯籠は箱の向こうにある。そこまで行くために雑誌を重ね、空のペットボトルを袋へ入れた。次の、こつ、までに一つ。遠ざかって戻るまでに、もう一つ。

 掃除を終わらせるつもりはなかった。完璧にしようとすると、始める前に疲れる。隣の機械が同じ壁へ何度でも戻るように、同じ場所を何度片づけてもいいと思うことにした。

 十回目の衝突音がしたころ、ベッドの脇に座れる床ができた。

 及川はそこへクッションを置いた。箱はまだ高く積まれ、照明も明滅している。けれど足の裏が、久しぶりに何も踏まず床へ触れた。

 隣の掃除機は回転を弱め、壁沿いを離れていった。しばらくして充電台へ戻る電子音が鳴る。向こうの人が起きているのか、予約運転だけなのかは分からない。

 及川はゴミ袋の口を結ばず、壁際へ置いた。続きは明日でいい。

 雨とエアコンの音に戻った部屋で、空いた一畳だけが暗く見えた。今夜眠るには、それで十分な広さだった。