採点しない歌
亜弓は、カラオケで歌わない。
元恋人と初めて行った夜、彼女が入れた曲の途中でマイクを取られた。
「音外れすぎ。聴いてるほうがつらい」
冗談めかして笑われ、周りも曖昧に笑った。以来、誘われれば曲を検索する係になり、タンバリンを振った。歌いたい曲があっても、採点画面に低い数字が出るところまで想像して消した。
仕事が早く終わった火曜、亜弓は駅前の一人用カラオケに入った。歌うためというより、誰にも会わずに一時間過ごしたかった。狭い部屋には椅子が一つ、壁にヘッドホンが掛かっていた。
端末を触るうち、昔好きだった曲が表示された。前奏だけで高校時代の帰り道を思い出す曲だ。
亜弓は予約した。
イントロが始まると、すぐ取消ボタンに指を置いた。最初の音を外す前なら、なかったことにできる。
歌詞の一行目が光る。
亜弓は取消を押さず、マイクを口元へ運んだ。
声は低すぎ、二行目で裏返った。サビでは息が続かず、最後の言葉を半分しか出せなかった。ヘッドホンの中で自分の下手さが鮮明に響き、頬が熱くなった。
二番に入る頃、亜弓は歌詞を一か所間違えた。元恋人ならそこで笑っただろうと思い、声がさらに小さくなった。それでも伴奏は待ってくれず、次の行が色を変えた。亜弓は上手く聞かせることを諦め、知っている箇所だけを追った。誰もいない部屋では、失敗を笑いに変える役も必要なかった。
曲が終わると採点を選ぶ画面が出た。
亜弓は「採点しない」を押した。
上手だったことにはしなかった。もう一度歌って成功させようともしなかった。水を一口飲み、次にはインストゥルメンタルの曲を入れた。
予約履歴から曲名を消すこともしなかった。
退室時間になり、受付で伝票を渡す。店員は亜弓が何を歌ったか知らない。
外はまだ明るかった。亜弓は駅へ向かいながら、さっき外した音を思い出した。恥ずかしさは残っている。
それでも、曲の最後まで消さなかった声も残っていた。亜弓は鼻歌にはせず、ただ歩幅を変えずに帰った。