放課後の卒業式
卒業式が終わって二時間後、鶴田美玖は一人で教室にいた。
黒板の花は半分消され、窓際の机には紙コップと菓子の袋が残っている。みんなは制服のまま駅前へ向かった。美玖だけが、もう鳴らないはずのチャイムを待っていた。
午後四時十二分、廊下を走る音がした。
扉を開けた亜矢は、学校指定のブレザーではなく、パン工場の白い作業着を着ていた。髪には小麦粉がつき、息を切らしている。
「間に合わなかった」
亜矢は二年の冬に退学した。父親が倒れ、家の店と生活費を支えるためだった。美玖たちは卒業式へ来てと何度も誘ったが、亜矢は「卒業する人の場所でしょ」と笑って断った。それでも今朝、美玖が送った《窓際の席、空けてある》というメッセージに、既読だけがついた。
「式は終わったよ」
「知ってる。パン、焦がしたから」
亜矢は紙袋を机に置いた。形の崩れたあんパンが二つ入っていた。美玖は担任から預かっていた細長い封筒を取り出す。卒業証書ではない。二年半分の成績証明書と、担任が書いた「いつでも相談に来ること」というメモだった。
亜矢は封筒を受け取らず、窓の外を見た。
「私、ここを卒業してない」
「うん」
美玖は否定しなかった。
「だから、来ちゃだめだったかも」
「でも今日は、私がここを出る日だから。最後に会いたい人を呼んだ」
亜矢はしばらく黙り、やがて作業着のポケットから古い制服のリボンを出した。退学の日に外したものだ。
「じゃあ、これ、置いていく」
美玖は首を振った。
「持って帰って。置いていかなくていいものまで、学校に渡さなくていいよ」
二人は窓際の席で、冷めたあんパンを食べた。卒業証書も校歌も拍手もない。西日が黒板の「おめでとう」を薄くし、午後五時の下校放送だけが流れた。
亜矢はリボンをポケットへ戻し、代わりに封筒を受け取った。
八年後、亜矢の小さなパン店が開店した。入口の籠には、あの日と同じ形の悪いあんパンが並び、値札の隅に紺色のリボンが結ばれていた。
美玖は一番目の客として一つ買う。「懐かしい」とは言わなかった。
「今日からだね」
亜矢も「やっと卒業」とは言わず、温かい袋を渡した。
店の扉が開き、朝の客が入ってくる。二人はそれぞれの持ち場へ戻った。