明日から借りた元気

喜多見隆路のパン屋は、娘の結婚式前日に百二十件の注文を抱えていた。

引き菓子の小さなブリオッシュ。娘の楓が、自分の式なのに厨房へ立つと言うので、隆路は追い出した。

「花嫁が小麦粉まみれでどうする」

「一人でできる量じゃないよ」

「父親をなめるな」

強がったものの、腰は痛み、目はかすみ、発酵時間を三度も間違えた。

深夜、材料を買い足しに出た先で、《明日から前借りできます》という店を見つけた。

「元気を一日分ください」

店員は念を押した。

「明日の分です」

「明日は式で座っているだけだ。今日より楽だよ」

小さな紙袋を開けると、柑橘のような匂いがした。

一息吸った途端、腰の痛みが消えた。

隆路は夜通し働いた。生地は思いどおりに膨らみ、焼き色は揃い、百二十個目が焼き上がったときも鼻歌が出た。ついでに娘の好きなあんパンまで焼いた。

朝、楓が厨房へ来て、並んだパンを見て泣いた。

「ほら、一人でできた」

隆路は胸を張った。

結婚式場へ着き、親族控室の椅子へ座った瞬間、体中の力が抜けた。

立てない。まぶたも上がらない。昨日の疲れと今日の疲れが、二日分まとめて押し寄せてきた。

「お父さん!」

楓の声がする。

隆路は「大丈夫」と言うつもりで、「だいじょぶぶ」としか言えなかった。

式は始まった。

隆路は新婦の父なのに、車椅子で入場した。係の人に押されながら、娘と腕を組んで歩く練習を一度もしていなかったことを思い出した。何でも自分で済ませるうち、頼られる機会だけでなく、頼る機会も捨てていた。誓いの言葉の最中に寝息を立て、親族写真では目を閉じ、披露宴の挨拶では楓に肩を貸してもらった。

散々だった。

けれど、お色直しの前、楓は控室で笑った。

「一人でできた?」

隆路は観念した。

「できなかった」

「じゃあ、これからは?」

「手伝ってもらう」

「誰に」

「お前に。婿にも。店の連中にも」

楓は満足そうに、あんパンを半分に割った。

「明日からね」

翌朝、隆路はさらに一日分を返すように眠り続けた。

店のシャッターには楓の字で貼り紙があった。

《本日休業。店主、元気を前借りしすぎました》

その下に、小さく続いていた。

《明日からは、みんなで焼きます》