明日の予約席

喫茶「鳶色」には、予約制度がない。

それでも店主の久慈ひばりは、閉店後、窓際の二人席に「ご予約席」の札を置く。

札の裏には、夜ごと違う名前が書かれていた。

インクが乾くところを見たことはない。レジを締め、最後の客を送り出し、振り返ると、白かったはずの裏面に誰かの名がある。

《蓬田央》

翌日、いつも文庫本を読む老人が来た。妻を亡くしたばかりだと知り、ひばりは向かいに座って新刊の話をした。

《鏡味すず》

翌日、受験に落ちた高校生が来た。ひばりは失敗作のチーズケーキを出し、「これは売り物にならないから、共犯で食べて」と笑った。

《名無し》

その日は、雨宿りの配達員が一人で入ってきた。名を尋ねず、温かいおしぼりを二本置いた。

札が間違ったことはなかった。

ひばりは、名前の主を救っているつもりはない。ただ少し長く話を聞き、カップを下げるのを急がない。それだけで、翌晩には別の名前が書かれている。

十二月のある夜、札を裏返したひばりは、椅子に座り込んだ。

《久慈ひばり》

自分の名は、見慣れているはずなのに他人のもののようだった。

明日は妹の命日だった。十七年前、些細な口論のあと、妹は雪道で事故に遭った。最後に言った「勝手にすれば」を、ひばりは毎年ひとりで聞き直してきた。

店を開け、客の寂しさには気づくのに、自分の寂しさだけは忙しさで隠した。

翌朝、ひばりは窓際の席を空けておいた。

昼を過ぎても、誰も来ない。

夕方になっても、札の向かいは空席のままだった。

ひばりは少し腹を立てた。誰が来るかまで教えないなんて、ずいぶん不親切な予約である。

閉店時刻が近づき、携帯電話を取り出した。

長いあいだ連絡を取っていない甥の番号を開く。妹が残した一人息子で、今では遠い町に家庭がある。

指が震えたが、発信した。

「もしもし」

幼い頃より低い声がした。

ひばりは用意していた挨拶を忘れた。

「明日、暇?」

「急だね」

「予約が入ったの。二人席」

電話の向こうで、甥が笑った。

「じゃあ、ケーキ二つ取っといて」

翌日、窓際の向かいに甥が座った。

妹によく似た眉で、コーヒーを苦そうに飲んだ。

二人は命日の話をせず、子どもの写真や、雪かきや、失敗したケーキの話をした。

閉店後、ひばりが札を裏返すと、また知らない名があった。

彼女はその横に小さく、自分の名も書き足した。

寂しさは予約制ではない。だから席は、いつでも二つ空けておくことにした。