時術師の折返し湯

 温泉宿《刻の岸》では、時計を置かない。

 それでも主人オルドは、客クオンが部屋へ入るたび一日ずつ老いていると分かった。若い顔に深い皺が増え、杖を握る指まで震えていたからだ。

「時術を使うたび、未来の身体を一日借りる契約です」

 王都を襲う洪水を止めるため、クオンは昨日だけで三百回、流れを数秒戻した。堤は守れたが、彼の身体には三百日分の疲労が積もった。明朝もう一度だけ術を使えなければ、最後の水門が落ちる。

「時間を戻す温泉があると聞きました」

「そんなものはありません」

 オルドは即答した。

「ただし、借りた時間を正しい場所へ折り返す湯ならあります」

 案内した浴槽では、右半分の湯が時計回り、左半分が反時計回りに流れていた。

 クオンが中央へ座る。右肩の皺が深くなる一方、左手の震えが消えた。右の湯には明日できるはずだった白髪が浮き、左の湯には昨日眠れなかった夜の隈が溶ける。二つの流れは彼の胸元でぶつかり、灰色の湯気を上げた。

 湯気の中には、使われなかった三百日の朝がちらついた。食事をし、歩き、眠れば本来ゆっくり訪れるはずだった時間だ。

「怖いですか」

「自分の歳へ戻るだけなら」

「戻るのではなく、今日のあなたへ揃えるんです」

 途中でクオンが「全部若返らせてくれ」と呟いたが、オルドは首を振った。

「救った町の時間まで、なかったことになります」

 術師は目を閉じ、やがてうなずいた。失った日を奪い返すのではなく、背負える並びに直す。それがこの湯の商品だった。

 砂時計一つぶん後、流れが止まった。クオンの髪には白い筋が残ったが、立ち上がった膝はまっすぐだった。借りた三百日は消えない。これから普通に眠り、食べて返す疲労へ並べ替えられたのだ。

 彼は杖を床へ立て、手を放した。倒れる前に片手でつかむ。

「明朝の一回は、これで間に合う」

 翌日、遠くで水門の閉まる重い音がした。昼過ぎ、宿の卓上へ見慣れない硬貨が転移してくる。刻印の日付は十年後だった。

『利息込み。次の入浴は、術を三百回使う前に予約します』

 オルドが未来貨を売上箱へ落とす。澄んだ音と重なるように、現在の玄関鐘が鳴った。