最初に言う痛み

鷺沢杏奈は、診察室で「大丈夫です」と言う練習をしていた。

頭痛は三週間続いている。夜中に目が覚め、朝は吐き気がする。それでも会社を休むほどではない、と問診票には書いた。母からは昔から、「迷惑をかけない子で助かる」と言われてきた。その言葉を守るように、発熱しても先に引き継ぎを作り、つらさを説明するときは必ず小さく見積もった。今日の予約も二度延期し、ようやく昼休みに押し込んだものだった。待合室で上司から電話が来たときも、「検査だけなので、すぐ戻れます」と答えた。実際には、帰りの電車で立っていられるかも不安だった。けれど症状を正確に言えば、休むよう命じられるかもしれない。休めば同僚に仕事が移る。その想像をすると、痛みより先に申し訳なさが強くなった。

電話を切ると、隣の女が杖を膝へ立てていた。五十代の終わりくらいで、片足に青い固定具をつけている。

「診察室でも、最初に大丈夫って言うの?」

杏奈は顔を上げた。

「聞こえてました?」

「待合室は、みんな聞こえるふりをしない場所だから」

女は礼子と名乗った。階段から落ちたのに、最初の病院で「歩けます」と言い、翌日さらに腫れたらしい。けれど失敗談を教訓にはしなかった。

「痛みって、何曜日の顔をしてる?」

「何ですか、それ」

「私は月曜。あなたは?」

杏奈は考えた。曜日ではなく、午前三時の顔だった。暗い天井を見ながら、明日の予定を数える顔。

礼子は受付でもらった鉛筆を一本、杏奈へ渡した。

「呼ばれたら最初の一文を、『困っているのは』で始めてみて。あとは好きに話せばいい」

そのとき、看護師が礼子の名を呼んだ。礼子は杖をつき、杏奈の返事を待たずに診察室へ消えた。

杏奈は問診票の「日常生活への支障なし」に引いた丸を見た。消しゴムはない。鉛筆の反対側でこすると、紙が灰色に汚れた。

やがて自分の名が呼ばれる。診察室へ入り、医師に「今日はどうしました」と訊かれた。

喉まで「大丈夫です」が上がってきた。杏奈は礼子の鉛筆を握り、先に別の言葉を出した。

「困っているのは、痛くて夜に眠れないことです」