最後の巡回電話
午後十一時五十分。解体前夜のオフィスビルで、猪俣和真は最後の巡回をしていた。
警備室の固定電話が鳴る。表示された番号は、三年前に同じ会社で働いていた芦原真緒のものだった。
「まだ、その机にいるんだ」
「今夜で終わりだけどな」
「一階の返却口に、社員証を入れたい。シャッター、開けられる?」
真緒はビルの外にいるらしい。二人が別れたのも、この建物だった。
社内恋愛を理由に機密情報を漏らしたという匿名告発が出て、和真は契約を切られた。告発文には、真緒しか知らない二人の会話が書かれていた。彼女が保身のために売ったと思い、説明を求めず去った。
「社員証なら郵送でいい」
「あなたのも持ってる」
和真は胸元を見た。今使っているのは警備会社のカードだ。元の社員証は、退職時に紛失扱いになっていた。
「どうして真緒が」
「告発した部長の机から、二枚とも取り返した。私も辞めさせられたから、返す場所がなくなった」
十一時五十四分、真緒から画像が届いた。告発書の原本だった。本文は部長のパソコンで作られ、末尾に真緒の署名を模した画像が貼られている。その下には、彼女自身が人事へ出した抗議文があった。受領印は押されていたが、社内記録には残っていない。
「抗議したのか」
「した。あなたには、部長から連絡するって言われた」
「俺には、君が認めたって」
ビルの自動放送が、零時の完全施錠を告げる。あと四分。
「三年前、外で待ってた」と真緒が言う。「説明すれば信じてくれると思って」
「俺は裏口から出た」
「知ってる。防犯映像で見た」
外の監視カメラに、傘を持つ真緒が映った。玄関のすぐ先。和真がシャッターを上げれば、会える距離だった。
「今さら会って、どうする」と彼は訊いた。
「分からない。でも、裏切ったままにはされたくなかった」
十一時五十九分、解体業者の遠隔操作でシャッターの電源が落ちた。和真が開放ボタンを押したのは、その一秒あとだった。
真緒は二枚の社員証を返却口へ入れた。金属の筒を滑る音が、警備室まで届く。
和真は自分の古い顔写真を拾い、真緒のカードと重ねた。電話の向こうで足音が遠ざかる。彼は追う代わりに、二枚をカード裁断機へ差し込み、最後の巡回キーを返却箱へ落とした。