最後の赤字
葉山玖美は、紙の本がなくなるから出版社を辞めるのではなかった。
なくならないようにと願う人間だけで、壊れる働き方を支えていることに疲れたのだ。
校閲部の結城環は、玖美の退職理由を聞いても納得しなかった。徹夜が続くなら工程を変えればいい。人が減るなら採ればいい。辞めれば、変える側がまた一人減る。
玖美は「環は本を愛しすぎる」と言い、環は「玖美は自分を守りすぎる」と言った。翌日から二人は、誤植についてしか話さなくなった。
玖美の最終校了日、女性科学者の評伝が印刷所へ送られる直前だった。著者一覧を確認していた玖美が、巻末の協力者名簿で手を止めた。資料整理を担当した若手研究員の名前が丸ごと抜けている。
編集者は電話口で言った。
「本人も目立ちたくないって。ここから直すと刷版代が出る」
環は初校時のメモを開いた。研究員本人の希望欄には「所属と氏名を正確に」と書いてある。目立ちたくない、とはどこにもない。
「赤字を入れます」
玖美が鉛筆を持つと、環は原稿を押さえた。
「あなた、今日で終わりなのに」
「だから見逃しても平気?」
「違う。私が入れる」
「残る人だけに背負わせない」
二人は一瞬、互いをにらんだ。辞めることも残ることも、譲る気はなかった。
玖美が欠落箇所へ赤い線を引き、環が正しい表記を照合した。編集者は費用を理由に渋ったが、環は初校記録を添付し、玖美は修正の責任者欄に自分の印を押した。退職者の印は明日から無効になる。それでも今日の校正には有効だった。
印刷所から、差し替え可能との返事が届いた。締切は十分後。
環がデータを開き、玖美が一文字ずつ読み上げる。所属名の長いカタカナで一度つまずき、二人とも笑わなかった。笑えば和解したことになりそうで、まだそこまでは行けなかった。
送信後、環は赤鉛筆を玖美へ差し出した。
「記念に、とは言わない。会社のだから」
「知ってる」
玖美は鉛筆を削り、環の机の定位置へ戻した。環は最後の校了紙を持ち上げ、玖美はその下へ差し替え済みの一枚を滑り込ませた。二人の指が離れると、研究員の名前は正しい行に収まっていた。