朝七時の取り置き
「取り置きは、当日中に受け取ってください」
ベーカリーの開店前、桑原実花は杉本晴也へ毎朝そう言った。
晴也は商品企画、実花は店舗責任者。新作を試す日は、焼き上がりの一個目を彼のために袋へ入れる。晴也は九時までに取りに来ることもあれば、会議で夕方になることもあった。それでも実花は売らずに残した。
二人の関係も同じだった。食事へ行き、休日に市場を回り、互いの部屋へパンを届けても、名前は同僚のまま。明日も店に来ると思えば、受け取られない気持ちを急いで渡す必要がなかった。
晴也が横浜の新店舗へ転勤する最終日、実花は彼の好きな塩バタークロワッサンを焼かなかった。取り置きする理由がなくなるのが怖かった。
いつもなら焼成表の隅に《杉本分》と書く。けれどその朝は空欄のままにした。発酵室の甘い匂いも、天板を滑らせる音も同じなのに、明日から晴也が扉を開けないと思うだけで店が広く感じられた。実花は何度も棚を見て、誰も来ないうちから取り置き札を裏返した。
朝七時、晴也はいつもより早く厨房へ来た。空の取り置き棚を見てから、白い注文票を実花へ差し出す。
《受取日 来月第二日曜》
《受取場所 横浜店》
《商品 朝食二名分》
《受取人 実花・晴也》
「注文、勝手に入れました?」
「僕が店長に頼みました。席も二つ取ってあります」
晴也は列車の予約画面も見せた。実花の最寄りから新店舗まで、朝一番の経路が保存されている。
実花は注文票の《一回》に引かれた丸を消し、《毎月》へ書き直した。次に、冷凍庫から隠していた生地を出す。
「焼いてないと思いました?」
「思いました」
「受け取りが遅いからです」
オーブンへ入れたあと、粉のついた手を洗おうとした晴也を、実花が止めた。その指を自分のエプロンで拭き、きれいになった手を握る。
「実花」
初めての呼び方に、実花はうなずいた。
開店ベルが鳴るまで、二人は手を離さなかった。焼き上がりを待つ時間さえ、もう先送りではない。
取り置きは、当日中に受け取ってください。
晴也は転勤するその朝、何年も残されていた気持ちを、次の約束ごと受け取った。