未完成の母

画家だった母は、自画像を一枚だけ完成させなかった。

顔と手は細かく描かれているのに、背景が白い。

病気が進み、何を描くつもりだったのか聞けないまま亡くなった。

息子は絵を引き取り、母のアトリエを閉じた。

自分も絵を学んだが、母と比べられるのが嫌で、広告会社へ就職した。

未完成の自画像を見るたび、続きを期待されている気がして、額へ布を掛けた。

ある夜、筆を水へ浸したまま眠ると、絵の母が話した。

「そこ、暗い」

母は、濡れた筆がパレットにある間だけ話した。

「背景は何を描くつもりだったの」

「まだ決めてない」

「完成させたかった?」

「あなたは、完成が好きね」

息子は腹を立てた。

仕事でも、締切と完成形ばかり求められる。

母はいつも、描きかけの絵を何枚も残し、気分で別の作品へ移った。

「未完成のまま死んだら、残された方が困る」

息子が言うと、母は絵の中で少し笑った。

「完成しても、残された方は困るよ」

母の死について、正しい終わり方などなかった。

最後の会話も、最後の絵も、途中で止まった。

息子はその途中を、自分が埋めなければならないと思い込んでいた。

「背景、描いていい?」

「嫌」

「何で」

「あなたの絵は、あなたの画面に描きなさい」

筆の水が乾き、母は黙った。

翌朝、息子は新しい大きな紙を買った。

何を描くか決めず、白いまま壁へ掛けた。

仕事から帰るたび、一色だけ置いた。

駅のホームの灰色。

弁当の梅干しの赤。

同僚の傘の黄色。

母とは関係のない、自分の一日の色だった。

一年後、紙は町の景色になった。

人物は小さく、空は広い。

母の画風とは似ていない。

個展へ出すと、未完成に見えると言われた。

右下に白い空間が残っていたからだ。

息子は説明せず、そのまま展示した。

母の自画像は家に残した。

背景は白いまま。

濡れた筆を置いても、もう話さなかった。

それでも息子は、白い部分を空白とは思わなくなった。

母が描けなかった場所ではなく、描かないと決めた場所かもしれない。

完成しなかった人を、完成した思い出へ閉じ込めなくてよかった。

息子は次の作品にも、小さな白を残した。

誰かが続きを想像するためではない。

自分がいつでも、そこから別の絵を始められるように。