杖を落とす花屋

花屋の仕入れ帳には、閉店後になると、翌日店内で最初に落とされる物の名が一つだけ浮かんだ。

「十円玉」

「白い手袋」

「花鋏」

店主はレジ前へ皿を置き、床を空け、危ない道具を遠ざけた。

落とし物はすぐ持ち主へ戻り、客は店主をよく気のつく人だと思った。

ある夜、帳面に、

「黒い杖」

と現れた。

翌朝、店主は椅子を入口へ出し、床の水滴を拭いた。

昼過ぎ、毎週来る老人が黒い杖をついて入った。

老人は、記憶を失いつつある妻のため、決まって淡い色の花を一輪買う。

店主が椅子を勧める前に、杖が床へ落ちた。

老人は拾おうとせず、そのまま立ち尽くした。

「もう、花は要らないそうです」

妻は見舞いへ行っても夫だと分からず、花にも目を向けない。

毎週同じ花を持っていくのは、自分が夫だった証拠を押しつけているだけではないかと思ったという。

帳面が予告したのは、手が滑る事故ではなかった。

老人が杖を支えにすることさえやめるほど、力を失う瞬間だった。

店主は杖を拾わず、先に椅子を近づけた。

老人が自分で座ってから、杖を手の届く場所へ立てる。

「奥様は、今、何色がお好きですか」

「昔は薄紫」

「今は?」

老人は答えられなかった。

二人で施設へ電話し、職員へ尋ねた。

妻は最近、食堂の窓から見える黄色い花をよく指さすという。

店主は小さな黄色い花を一本包んだ。

昔の妻の好みではなく、今日の妻が見ている色だった。

翌週、老人はまた店へ来た。

杖は落とさなかった。

「名前は分からないけど、花を見て笑った」

老人は言った。

「私を見て笑ったわけじゃないけどね」

店主は、

「それでも、同じ花を見たんですね」

と答えた。

仕入れ帳から「黒い杖」の文字は消えた。

その後も硬貨や手袋を予告したが、店主は落ちる前に全部を受け止めようとはしなくなった。

落とした人が自分で拾うのか、少し座りたいのか、別のものを手放そうとしているのか、まず待つ。

予知できるのは、床へ落ちる物の名だけ。

その人が何を失いかけているかは、隣で話を聞かなければ分からなかった。