柚子塩の距離

高津理人は、東京から福岡へ移る社内公募の結果を、まだ恋人に知らせていなかった。

 正確には、知らせる相手が今夜いなくなった。

 二年間の遠距離恋愛を続けた彼女は、画面越しに「もう、次に会える日を数えるのに疲れた」と言った。理人は、来月から近くに住めると伝えかけた。けれど異動が決まってから驚かせようと思い、応募したことさえ黙っていた。今さら言えば、別れを撤回させる切り札にしかならない。

 理人は何度も、彼女が驚いて泣き、改札で抱きつく場面を想像していた。黙って準備することを思いやりだと思っていたが、彼女には、二人の距離を変える話からまで外されていたことになる。

 終電前の「波間」には、理人以外の客はいなかった。芋焼酎を一杯頼むと、店主はたこぶつへ柚子皮と粗塩を振った。冷えた蛸は箸の先で弾み、噛むたびにきゅっと歯を押し返す。柚子の鋭い香りが鼻へ抜け、塩の粒が舌の上で遅れて溶けた。

 異動を辞退する期限は明日だった。福岡へ行く理由の半分は彼女だった。残りの半分は、新しい事業に参加したかったからだ。どちらが本当か、自分でも切り分けられない。

 福岡の机には、まだ理人の名前札さえない。それでも応募書類には、現地で取り組みたい仕事を三ページも書いた。恋人の住所は一度も書かなかった。その事実だけは、失恋しても消えなかった。引っ越し用の段ボールも、まだ一枚も買っていない。

「硬いですね」

「噛めば甘くなる」

 店主は蛸の話だけをして、包丁を拭いた。

 理人は人事への辞退メールを閉じた。明日、異動先の責任者へ電話し、仕事内容と最初の半年の目標を改めて聞く。彼女がいなくても行きたいのか、その答えを聞きながら決める。少なくとも、失恋の勢いで元の席へしがみつくのはやめる。

 彼女には異動のことを送らない。荷物を返す連絡が来たら、そのとき初めて必要なことだけ話す。

 蛸をもう一切れ噛んだ。冷たさの奥から、ごく薄い甘みが出てきた。距離は縮まらなくても、噛んだ分だけ味は変わった。