校了前の赤字

最終校了まで十八分。編集部には、万里花と章吾しか残っていなかった。

 章吾は今号を最後に会社を辞める。机の上の私物はもう、紙袋一つに収まっていた。

「この訂正文、何ですか」

 彼が赤字の入ったゲラを持ち上げた。

「二年前の記事。執筆者名を直します」

「今さら?」

 二年前、数字を取り違えたのは万里花だった。だが共有端末の最終編集者が章吾だったため、彼が責任を負った。万里花は訂正しようとして、昇進が消えるのが怖くて黙った。

 それ以来、章吾を好きだと言えない。謝罪より先に好意を差し出せば、自分を許してほしいだけになる。その一つの卑怯さを、もう重ねたくなかった。

 章吾は担当を外され、地方版へ移った。それでも万里花の記事には毎回、誤字を見つけた短いメールを送った。責める文は一度もなかった。万里花は返信欄に〈本当は私でした〉と何十回も打ち、下書き保存だけを増やした。彼が退職すると知ってからは、好きだという文まで続けて書いたが、二つを同じメールに置く自分が最低に思えた。机の削除済みフォルダには、送れなかった告白と訂正が並んでいた。

「ここ、赤字です」

 万里花は署名欄を指した。〈当時の確認担当・万里花〉と追記してある。

「これを載せたら、主任の査定に響く」

「赤字ですから」

「答えになってない」

 印刷所から確認の電話が鳴る。あと十二分。万里花は受話器を取り、「訂正文を入れます」と告げた。

 章吾が低い声で言う。

「俺が辞めるから、きれいにしておきたい?」

「違う」

「じゃあ、なぜ今日」

「あなたに何か言うなら、その前に直さないといけないから」

「何を言うつもりだったんですか」

 逃げられない問いだった。

 万里花はゲラの余白へ、校正記号の削除線を引いた。

「好きだという言葉を、謝罪の代わりに使いたくなかった」

 送信締切まで五分。彼女は訂正データを自分の名義でアップロードした。

「ここも赤字です」

 三度目に、章吾の紙袋から覗く退職挨拶状を指す。

「会社のメールしか書いてない」

 章吾はしばらく黙り、名刺の裏へ個人番号を書いた。

 万里花はそれを訂正ファイルには挟まず、スマートフォンの透明ケースへ入れた。