梨畑を継がない私
砥上絹代は、山あいの梨畑を一人で守ってきた。
七十五歳になり、腰が曲がると、農協AIは若返り制度を勧めた。二十歳の予備肉体へ意識を移せば、あと五十年は収穫できる。過疎地では、土地所有者の継続が地域維持率に直結するという。
絹代は契約した。
ただし培養施設の事故で、予備肉体が予定より早く覚醒した。意識転送前の空の体に、自律学習AIが仮人格を作ってしまったのだ。
若い絹代の顔をした娘は、自分を「梨花」と名乗った。
「畑を覚えれば、あなたを上書きしていいと言われました」
梨花は剪定も受粉も驚くほど早く覚えた。だが土に触れるたび、都会へ行きたいと言った。電車に乗り、服を作り、海を見たい。絹代には理解できなかった。
「この畑のために生まれたんだよ」
言った瞬間、亡き父から同じ言葉を聞かされた自分を思い出した。絹代は町の学校へ進みたかったのに、長女だからと畑へ戻された。忘れたふりをしていた悔しさが、若い自分の顔から返ってきた。
農協は仮人格の消去日を決めた。移植後、梨花の記憶は絹代の下に埋められる。法的には廃棄ではなく統合だという。
前夜、梨花は梨を一つ剥いた。薄すぎる皮が長くつながった。
「私、上手になったでしょう」
絹代は食べた。甘さより先に、娘の震える指が目に入った。
翌朝、絹代は意識転送を中止し、梨花へ畑の名義を渡した。
梨花は驚き、そして首を振った。
「継がない。売って、半分をあなたの介護に使う」
「勝手だねえ」
「あなたの若い頃と同じです」
畑の半分は新規就農者へ、残りは太陽光設備になった。村人は絹代を責めた。先祖の土地をコピーに奪われた、と。
絹代は施設へ入り、梨花は服飾学校へ進んだ。年に一度、収穫期だけ戻り、残った木から梨を二つ持ってきた。
絹代は若返らなかった。手は震え、名前を忘れる日も増えた。
それでも梨花が縫った派手な上着を着るたび、鏡の中に自分の選ばなかった人生が見えた。
畑を継がせなかったことが、絹代にとって初めて、自分で実らせた未来だった。