段ボールを開け直す

牧野朔実の部屋には、封をした段ボールが二十七箱積まれていた。

明日の朝、引っ越しトラックが来る。新しい部屋は電車で一時間離れた町にあり、今の街で別れた恋人と偶然会うこともなくなる。

別れた夜、朔実は勢いで物件を申し込んだ。二人で通った喫茶店、待ち合わせた改札、相手の家へ曲がる交差点。地図から全部消せないなら、自分が地図の外へ出ればいいと思った。

スマートフォンには二件のメッセージが並んでいる。

管理会社からは、〈本日中なら更新手続きが可能です〉

引っ越し会社からは、〈明朝八時に伺います。最終確認をお願いします〉

二十九歳になったばかりの朔実は、早く次の生活へ進まなければと思っていた。新しい町、新しい店、新しい自分。引っ越せば、別れをきれいな区切りにできる気がした。

最後の夜、カーテンを外すため窓を開けると、向かいのビルの看板が見えた。恋人と出会う前からそこにあり、色あせながら毎晩光っていた。朔実がこの町で過ごした七年のうち、二人だったのは三年だけだ。

段ボールを一箱開ける。中には食器が入っていた。二人で買った皿だけを取り出そうとして、やめた。皿に責任はない。

朔実は引っ越し会社へ電話した。

「明日の予約を、キャンセルしたいです」

キャンセル料はかかった。新居の初期費用も一部戻らない。電話を切っても、別れが正しいものに変わったわけではなかった。

それでも朔実は、残ることを相手のせいにしないと決めた。

新居の最寄り駅を検索すると、保存した飲食店も、歩いた履歴も真っ白だった。その白さに救われると思って申し込んだはずなのに、今夜は空白が命令のように見えた。忘れなければ次へ進めない、と誰かに決められたわけではない。記憶のある町で暮らし直す道も、まだ残っていた。

友人へ残ると伝えると、〈それも引っ越しみたいなものだね〉と返ってきた。朔実は、同じ住所の中で居場所を移すことにした。

赤いペンで箱の文字を消し、「本棚を窓側へ」と書き直す。最初の箱から本を出し、空いた壁へ一冊ずつ戻し始めた。