母声の閂
内門の向こうで、味方の叫びと敵の足音が重なっていた。
門番ノルヴァは閂に埋め込まれた白い貝殻へ口を寄せた。この門は死者の声でしか動かない。術者が愛した死者の声を一つ借りて命じれば、どれほど重い門でも従う。
その代わり、命令するたび、その声にまつわる記憶が一つ消える。
ノルヴァが借りられる声は、母メルディのものだけだった。
「上がれ」
自分の喉から、十三年前に死んだ母の声が出た。門が半分上がり、外へ取り残されていた兵たちが滑り込む。
代価に、熱を出した夜に母が歌ってくれた旋律が消えた。歌われた事実は覚えているのに、音がない。
敵兵が門の下へ腕を差し込む。
「止まれ」
母の声で命じる。門が停止し、味方が潜り抜ける時間を稼いだ。今度は、母がパン生地を叩きながら笑った声が消えた。笑顔は見えるのに、世界は無音だったように思える。
最後の味方が入った。だが敵の槍兵も三人、門の下へ身を滑らせている。
「落ちろ」
門扉が地面へ叩きつけられ、槍兵と後続を断った。ノルヴァの記憶から、母に名前を呼ばれた朝がすべて消えた。
静かになった門内で、兵たちは抱き合った。
閂を見ると、敵の術師が外側から解呪を始めている。今度開けば、もう閉じる力は残らない。門を永久に眠らせる命令が必要だった。
貝殻が囁く。
――最後に借りれば、その死者の声をおまえのものにする。だが、誰の声だったかは永遠に思い出せない。
ノルヴァは目を閉じた。残っている母の言葉は一つだけだった。死の床で、泣く娘へ告げた声。
大丈夫。おまえは生きられる。
「眠れ」
門が地の底まで沈み、石と一つになった。外の解呪音が途絶える。
隊長がノルヴァの肩を叩いた。
「よくやった。返事をしてくれ」
「大丈夫」
口から出たのは、柔らかく低い女の声だった。
周囲の兵が息を呑む。ノルヴァ自身は、その声を初めて聞いた気がした。
「誰の声だ?」
彼女は答えられない。胸の中に大きな空洞があり、そこへ知らない女の声だけが住んでいる。
閉じた門の前で、ノルヴァは自分の名前を呼んでみた。
母の声が、他人の娘の名を、ひどく懐かしそうに呼んだ。