水族館の裏潮
母が再婚すると聞いてから、娘は水族館で一度も笑わなかった。
母の隣を歩く男性は、魚の名前を間違えてばかりだった。
娘はそのたび訂正し、男性が「詳しいね」と言うたび、褒められたことまで腹立たしくなった。
大水槽の裏に迷い込み、細い作業通路へ入った。
扉が閉まると、外の一分が、通路では一度の満ち引きになった。
水槽の水位がゆっくり変わり、魚たちは眠り、また泳ぎ始めた。
腕時計では半日が過ぎたのに、ガラスの向こうの母は一歩も進まない。
母は娘がいないことに気づき、振り返りかけた姿のまま、ほとんど止まっていた。
娘は作業通路を歩いた。
裏側から見る水槽は華やかではなかった。
配管、餌の容器、掃除用の網。
展示の前で優雅に泳いでいた魚も、岩陰でじっと休み、時々仲間を追い払った。
綺麗に見える家族も、裏ではきっと面倒なのだと思った。
二度目の満ち潮で、母の顔がほんの少し動いた。
唇が娘の名前を作っている。
再婚相手の男性は、母より先に係員を呼ぼうと走り出していた。
魚の名前は知らなくても、娘が消えたことにはすぐ気づいたらしい。
三度目の潮が引く頃、娘は疲れて床へ座った。
鞄の中に、男性からもらった海亀の飴があった。
嫌いだから捨てるつもりだったが、空腹に負けて食べた。
味は普通の葡萄だった。
扉を開けると、外では三分しかたっていなかった。
母が駆け寄り、強く抱きしめた。
男性は係員に頭を下げ続けている。
娘は母の腕の中で言った。
「結婚してもいい」
母が息をのむ。
「でも、この人をお父さんとはすぐ呼ばない」
「うん」
男性も、少し離れたところでうなずいた。
「魚の名前も、すぐには覚えられないと思う」
「それは覚えて」
三人で大水槽へ戻った。
娘は魚を一つずつ教えた。
男性は三つ目から間違え、母が笑い、娘も少しだけ笑った。
水槽の表側からは、潮が動いているように見えない。
それでも魚たちは、誰にも気づかれない時間に休み、起き、同じ水の中で距離を変えていた。
家族もそうやって、少しずつ同じ場所に慣れていけばいいのだと娘は思った。