永遠の離婚届

漆原小夜は、夫と三百十一年結婚していた。

婚姻法の条文は「死亡によって婚姻は解消する」と定めていた。不老不死の時代になっても、離婚には双方の同意か、暴力などの重大事由が必要だった。夫は殴らない。浮気もしない。ただ、小夜を愛していなかった。小夜も同じだった。

二人は二百年以上、同じ家の別々の階で暮らした。冷蔵庫も通信回線も分け、会話は共有設備の修理日だけ。最後に交わした私的な文章は、百九十六年前の〈牛乳を買ってきて〉だった。

二人が離婚を先延ばしにした理由は、いつも同じだった。来年でいい。百年後でも遅くない。喧嘩さえ起きない家で、決断だけが腐らず残った。不死者の夫婦にとって、無関心は暴力より証明しにくい傷だった。

小夜が離婚届を出すと、夫は署名を拒んだ。

「一人になるのは嫌だ」

「今も一人でしょう」

「書類上は違う」

小夜は裁判を起こし、婚姻関係の「死亡認定」を求めた。審理AIは共同写真、会話記録、脳内感情値を三百年分解析した。

「敵意は低く、生活協力は安定しています。婚姻破綻とは認定できません」

小夜は笑った。

「憎しみがないと、終わってはいけないんですか」

夫は証言台で言った。

「愛しているから、出ていかないでほしい」

「それは私を愛してるんじゃない。永遠に一人でいる自分が怖いだけ」

長い沈黙のあと、夫は初めて小夜を見た。

「君は怖くないのか」

「怖い。でも、その怖さをあなたに飼わせたくない」

判決は、共同生活の実質が百年以上失われた場合、関係の終了を一方から申請できるというものだった。制度上初めての「関係死」だった。

退去の日、二人は同じテーブルで朝食を食べた。夫が牛乳を注ぎ、小夜はパンを半分渡した。

「次の家、決まった?」

「海の近く」

「そう」

三百十一年で最も穏やかな会話だった。

玄関で夫は離婚届に署名した。小夜は礼を言わなかった。別れは恩ではない。

扉の外には、永遠に続くかもしれない一人暮らしが待っていた。小夜は初めて、その長さを自分のものだと思えた。