泉が最初に映した顔

聖花祭の夜、神殿の泉が墨のように黒く染まった。

 その直前に祈りを捧げていたのは、リゼロッテただ一人だった。

「聖女への嫉妬から泉を汚したのだな」

 婚約者リュカスは群衆の前で言い放つ。

「神を恐れぬ女との婚約を破棄する」

 黒い水を見た参拝者たちは、悪女、冒涜者、と口々に叫んだ。二年前、枯れかけた泉の地下水路へ入り、泥にまみれて流れを戻したのはリゼロッテだった。そのとき一度も現れなかったリュカスが、完成式典では最前列に立ち、今は彼女を追放する側の顔をしている。積み上げた日々が一瓶の染料で消されるなら、記録に語らせるしかない。

 リゼロッテ・ネスティルは黒い水を指ですくった。指先を見て、幼い参拝者が母親の背へ隠れる。その仕草に胸は刺されたが、リゼロッテは手を引かなかった。自分が汚れを恐れれば、泉を守る資格まで手放してしまう。涙ではなく、薬草の甘い匂いが鼻につく。毒ではない。夕鐘で発色するだけの幻染料だ。

「大司祭ミネーヴァ。源泉水鏡を使わせてください」

 ミネーヴァは銀の鉢を差し出し、一歩退いた。水鏡は泉へ異物が入った瞬間、最初に水面へ映った顔を保存する。神殿が奇跡を捏造しないため、リゼロッテ自身が設計した証拠魔法だった。

 彼女が一滴を鉢へ落とす。黒い水面が晴れ、夜明け前の泉が映った。白い法衣の聖女候補が小瓶を傾け、何度も周囲を確かめている。最後に顔を上げ、その姿が鮮明に残った。

 リュカスは咳払いをした。

「聖女は泉の守りを試しただけかもしれない。君も大事にせず、婚約を戻せば――」

「わたくしを処刑する言葉は大声で、真相は小声で済ませるのですね」

 リゼロッテは婚約証を黒い泉へ落とさず、きちんと二つに裂いた。

「破棄を受諾します。信仰を守るために、偽りを見逃すつもりはありません」

 彼女は元婚約者に背を向けた。ミネーヴァが、辺境の枯れた泉を共に蘇らせてほしいと手を差し出す。王妃の冠より、誰かの水を守る仕事を選び、リゼロッテはその手を取った。