海老のしっぽから
狩野若菜が駅へ着いたとき、終電はもう出たあとだった。
明朝、母は手術を終えた病院から退院する。若菜が迎えに行く約束だった。ところが展示会の責任者から、午前八時の設営にも来てほしいと連絡が入った。引き継げる人はいる。それでも責任者は〈若菜さんが一番分かっているから〉と書いてきた。
その言葉を断れず、若菜は何度も母との約束を変えてきた。入院の日も、説明を聞く日も、仕事が延びた。母は毎回「大丈夫」と言った。今夜も、退院はタクシーで帰れるとメッセージが届いている。
手術前の説明の日、母は一人で医師の話を聞き、帰宅してから資料を封筒へ戻した。若菜は後日そのことを知り、次は必ず行くと約束した。けれど責任者の頼み方はいつも穏やかで、断れば自分から信頼を捨てるように感じる。母の大丈夫だけを、本当の許可として受け取ってきた。病室の番号は覚えているのに、責任者の予定ばかり見ていた。
駅の売店で、天むすが一つだけ残っていた。小さなおにぎりから、海老のしっぽが突き出している。揚げ油の匂いが紙袋にこもり、衣は冷えて硬くなっていた。
若菜は昔から、しっぽを最後に残した。食べにくい部分を後回しにし、結局、紙の隅へ置く。母はそれを見つけると、何も言わず自分の皿へ移した。
ベンチに座り、若菜は海老のしっぽを先に噛んだ。乾いた音がして、硬い殻が細かく砕ける。食べにくいだけで、食べられないわけではなかった。
責任者への返信画面を開く。〈調整します〉と打った文字を消し、〈明朝は家族の退院に付き添うため出社できません。設営資料は共有済みです〉と書いた。謝罪の一文を足しかけて、やめた。
天むすは、しっぽを失うとただの小さな丸になった。若菜は残りを食べ、業務用の通知を翌日の正午まで切った。
母から届いた〈一人で平気〉の下に、迎えの時刻だけを返す。始発まで待つ必要はない。若菜は病院近くのホテルを予約し、タクシー乗り場へ向かった。
紙袋の底には、海老の欠片が一つも残っていなかった。