満室の夜と紙袋
大型イベント前夜、ホテルのフロントは紙袋を抱えた客で埋まっていた。
瑠璃は制服の襟を正し、配送された荷物を一つずつ渡す。自分も明日は休みを取り、「路地裏ルル」の名で新刊を売る予定だった。けれど職場では、イベント名すら口にしていない。休暇申請には私用と書き、搬入箱も自宅から会場へ送った。客の趣味を尊重する仕事だからこそ、自分の趣味だけは見せてはいけない気がしていた。
チェックインを終えた客が、ロビーで紙袋を落とした。中から薄い本が何冊も滑り出す。その一冊を見て、瑠璃の手が止まった。
自分の三年前の本だった。初版しかなく、表紙の角が白く擦れている。
隣のフロント係が拾い上げる。
「この絵、すごく好き」
瑠璃の背中が冷たくなった。奥付を開けばペンネームがある。客が戻り、慌てて本を受け取った。
「それ、明日サインしてもらうんです。作者さん、久しぶりに新刊出すから」
フロント係が笑った。
「よかったですね」
客が去ってから、瑠璃は声を落とした。
「私なの」
「何が?」
「その作者」
同僚の目が丸くなる。瑠璃は次の宿泊カードへ視線を落とした。
「気づかなかったことにして。ホテルの人がああいう本を描いてるって、客に知られたら」
「ホテルの人は、勤務中に本を売らない。路地裏ルルは、明日休みの日に売る。それだけじゃない?」
同僚は拾い残した透明のブックカバーを差し出した。
「私は好きって言ったの、取り消さないよ。勤務中の瑠璃さんを知ったからって、明日の作者まで偽物にはならないでしょ」
翌朝、瑠璃は私服でホテルを出た。ロビーには昨夜の客がいた。目が合い、紙袋からあの本が少し見える。
瑠璃は通り過ぎかけて、足を止めた。
「今日、東ホールです」
客が首を傾げる。
「路地裏ルルのスペース。私がいます」
名乗った瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。客は叫ばず、両手で本を抱き直した。
「行きます」
フロントの同僚は聞こえないふりをして、朝の鍵を数えていた。
瑠璃は制服ではなく、自分の名前で開く自動扉をくぐった。