火星から、弟へ
椿原環が火星で最も多く話した相手は、地球にいる妻ではなく、死んだ弟・隼斗だった。
地球との通信には、その日の位置によって十数分の遅れが出る。問いかけても返事は次の休憩時間、会話が弾むころには就寝時刻になる。
死者回線だけは遅れなかった。死者には居場所がないため、距離もないのだという。
環は仕事から戻ると隼斗へ電話した。砂嵐、壊れた酸素農園、同僚との喧嘩。隼斗は地球にいたころと同じ速さで笑い、同じ間で相づちを打った。
妻の里穂から届く長い映像メッセージは、だんだん後回しになった。最初は食事をしながら再生していたが、やがて要点だけ文字変換で読んだ。返事を考えるのが面倒だった。昨日の質問に今日答え、その答えへの反応を明日待つ。隼斗なら、今すぐ「それは環が悪い」と言ってくれる。
ある晩、環は基地の延長滞在を申し込んだと報告した。
『里穂さんには?』
「まだ。どうせすぐ返事は来ないし」
『すぐ返事が来ない人には、話さなくていいのか』
「おまえは来る」
『俺は、新しい返事を待たなくていいからな』
隼斗の声が、初めて遠く感じた。
『俺は生きてたときの環しか知らない。何を話されても、昔の弟として答えるだけだ。便利だろ』
「そんな言い方するな」
『里穂さんは、返事を待つ間にも変わる。環の返事で傷ついたり、考え直したりする。面倒なのは、相手に未来があるからだ』
環は電話を切り、未再生のメッセージを開いた。
里穂は髪を短くしていた。窓辺の鉢植えを見せ、環の帰還予定に合わせて仕事を辞めるつもりだったが、延長するなら自分の計画も変えたい、と話していた。最後に、返事を急がないと言った。
環は三十分の映像を撮った。延長を一人で決めたことを謝り、帰還後の暮らしをどうするか、初めて答えのない形で尋ねた。途中で言い直し、黙り、泣いた。送信ボタンを押しても、答えは来ない。
翌日も来なかった。環は待った。
三日後、里穂から届いた映像の冒頭には、長い沈黙があった。その沈黙さえ、隼斗との即答より生きていると思えた。
環は死者回線を解約しなかった。ただ、弟へ電話するのは月に一度にした。
火星で初めて、遅さを孤独ではなく、誰かの時間として待てるようになった。