灰娘という呼び名の終わり
司法卿邸の夜会で、ベリルの席にだけ蓋付きの火鉢が置かれていた。
煤の匂いで咳が出る彼女のため、煙の漏れない魔石式へ替えたものだ。司法卿ディートリヒは、彼女が一度暖炉のそばで目を赤くしたことを覚えていた。
「寒くないか」
「これなら大丈夫です」
法廷では泣く者にも判決を変えない男が、ベリルの返事だけは聞き流さない。
夜会には、彼女が証言によって失脚させた旧侯爵家の親族も来ていた。酒の入った令嬢が、わざと大きな声で笑う。
「洗濯女の娘が司法卿のお気に入りですって。灰娘には立派すぎる席ね」
幼い頃から浴びた呼び名に、ベリルの背が固くなる。
ディートリヒが令嬢へ目を向けた。
「今の言葉を撤回しろ」
「昔から皆がそう呼んでいました」
「彼女の名はベリル・メイスだ」
令嬢の父が慌てて進み出る。
「では我が家の養女に迎え、由緒ある姓を与えれば問題は解決しましょう」
周囲から賛同の声が上がる。ベリルは膝の上で手を握った。
「要りません」
父親が顔をしかめる。
「身分を差し上げるのだぞ」
「母の姓を捨てたくありません。それに、侮辱された私が変わるのは違います」
全員が司法卿を見る。彼の庇護を受けるなら、高位の姓へ改めるのが当然だと思っている。
ディートリヒは養子縁組書を受け取り、そのまま返した。
「本人が拒否した」
「ですが、社交界で守るには家名が」
「法がある」
司法卿は夜会の記録官を呼び、侮辱行為と無断の養子提案を正式に記録させた。
「ベリル。帰るか」
「いいえ。まだ温かい葡萄酒を飲んでいません」
「では残れ」
彼は彼女の火鉢へ温石を一つ足し、令嬢の一族だけを退席させた。
先ほどの令嬢は退出間際、「司法卿がいなければ何も言えないくせに」と吐き捨てた。
ベリルは震えながらも答える。
「怖くても、私が言いました」
ディートリヒは彼女の功績を自分の庇護へ取り込まず、ただ頷いた。
「記録にも、そのとおり残せ」
記録官が「司法卿の庇護下」と書こうとすると、ディートリヒは止めた。
「庇護を理由にするな。侮辱されない権利は、私がいない席でも同じだ」
ベリルの安全を、彼との関係だけに依存する特権へ変えなかった。
「今後、灰娘という呼称をベリルへ用いることを禁ずる。彼女の名を守るために、彼女の名を変える必要はない」