炙り明太子の薄皮
桐生篤人は、来月から父親になる。だから今夜で、この店の常連をやめると決めていた。
妻に止められたわけではない。酒を飲む回数を減らし、夜は家へ帰る。自分で立てた約束だった。だが最後の一週間になっても、仕事帰りの足は何度もこの路地へ向いた。
今夜、妻から「健診で少し小さいと言われた」と連絡が来た。医師は経過を見ればいいと言ったらしい。それでも篤人は、何を返せばいいか分からず、「心配しすぎるな」と送った。妻からは既読だけがついた。
店には篤人一人だった。最後に、炙り明太子を一本頼んだ。
網へ置かれた薄皮が、ぱちぱちと小さく破れた。炭の煙に唐辛子の乾いた匂いが混じり、切られた断面から淡い湯気が立つ。外側は白く締まり、中心にはまだ濃い赤が残っていた。
「中まで焼かないんですね」
「全部同じにすると、ぱさつく」
店主は包丁を拭いた。
篤人は端の一切れを食べた。表面は香ばしく、内側はねっとりと舌へ残る。辛さは遅れて来た。
妻のメッセージを開き、「心配しすぎるな」を削除できないことを知った。送った言葉は戻らない。代わりに、明日の午前休を申請する画面を開いた。健診の再説明へ一緒に行く。仕事の予定は詰まっているが、同僚へ引き継ぎを頼む。帰りに、妻が食べられるものを聞く。
子どもの成長が順調かは、まだ分からない。自分が父親らしく振る舞えるかも分からない。店へ来ないだけで生活が変わるわけでもない。それでも「大丈夫」と遠くから言うのは、今夜で終える。
篤人は、家計のことも仕事のことも、自分が不安を見せなければ回ると思っていた。けれど妻が欲しいのは、根拠のない安心ではなく、同じ説明を隣で聞く人なのかもしれない。午前休を取れば、午後の会議では頭を下げることになる。評価に響く可能性もある。それでも、父親になる準備を、ベビーベッドの購入履歴だけで済ませるのはやめる。
最後の一切れは中心まで冷めていなかった。唐辛子の辛さの下に魚卵の塩気が残り、篤人は舌の熱が引くまで、妻への次の文を急がなかった。