焦げ目のないムニエル
料理教室の実習後、葉月がラウンジでコーヒーを飲んでいると、白身魚のムニエルが運ばれてきた。受講生向けのカフェにはない料理で、もちろん注文もしていない。
作れそうなのは講師の速水、助手の井浦、同じ班の牧瀬の三人だった。先週、葉月の魚だけが黒く焦げ、速水に火加減を注意された。以来、牧瀬は目を合わせない。
皿の魚には、片面だけ薄く小麦粉がついていた。付け合わせのパセリは赤い糸で束ねられている。注文票には席番号でなく「実演・0」とあった。
「牧瀬さん、先週、私のフライパンと替わったでしょう」
牧瀬の耳が赤くなった。先週、彼女は自分の火が弱いと思い、葉月のフライパンと無断で取り替えた。だが牧瀬の台の火力調整が壊れていて、葉月の魚だけが焦げた。言い出せないまま一週間が過ぎた。
今日は助手の井浦に頼み、葉月が書いた手順どおり、片面だけ粉を薄くつけて焼き直した。赤い糸は牧瀬のエプロンのほつれ。カフェの端末にある「実演」キーなら、会計を立てず試食皿を指定席へ出せる。
「速水先生にも話しました。謝るなら、原因を確かめてからにしなさいって」
速水は遠くで故障したつまみを交換していた。井浦は何も聞かなかった顔でレモン水を注ぐ。
葉月は、料理が下手だから焦がしたのだと思い、退会届まで鞄に入れていた。それを出す前に、牧瀬が頭を下げた。
「ごめんなさい。次は、自分の失敗を自分の皿に載せます」
葉月が料理教室へ来たのは、別れた恋人に『君は何をしても続かない』と言われたからだった。見返したいわけではなく、その言葉を自分の声にしたくなかった。だから一度の焦げで辞めようとした自分が、いちばん悔しかった。牧瀬の失敗を許せるかより、失敗した二人が次の火加減を一緒に確かめられるか。その方が、今日の皿には大切に思えた。
退会届は、鞄の中でまだ四つ折りのままだった。捨てるのは帰ってからでいい。今は次の授業で使う温度計を、牧瀬と選びたかった。
葉月は魚を一口切った。表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。
「次は同じ班で、焦げても半分こにしよう」