父を死亡させる日

鴻上清弦は、法律上まだ生きていた。

三年前に脳出血で肉体を失い、意識は公営クラウドへ移された。娘の夕歌は毎週、壁面端末の中にいる父と話せた。父は新聞を読み、将棋を指し、相変わらず娘の仕事に口を出した。

問題は、母が亡くなったあとだった。

家は父名義のまま売れず、預金も凍結された。清弦には生存権があるため、相続は始まらない。一方、クラウド維持費と古い家の税金は夕歌が払わなければならなかった。彼女は借金を重ね、ついに父へ「法的死亡届」を差し出した。

署名すれば清弦は財産権と市民権を失う。意識データは家族用端末へ移せるが、法律上は人ではなく、私有ソフトになる。

「金のために父親を殺すのか」

清弦は怒鳴った。

夕歌も怒鳴り返した。

「お父さんは死なないでしょう。私の生活が先に死ぬの」

それから一か月、父は面会を拒んだ。

夕歌が強制接続すると、仮想の居間で清弦は古い留守番電話を聞いていた。母が生前に残した、買い物や夕食の伝言だった。

「死亡届に署名すると、この公営保管庫へ入れなくなる」

父は小さく言った。

生きることに執着していたのではない。母の声へ通じる鍵を失うのが怖かったのだ。

夕歌は端末を持ち込み、母の伝言を一件ずつ再生して録音した。百八十二件。どれも「牛乳を買って」「帰りは遅い」ばかりで、愛しているという言葉は一度もなかった。

最後の録音を終えると、清弦は死亡届へ署名した。

家は売れ、借金は消えた。父の意識は夕歌の狭い部屋にある中古端末へ移った。行政から届いた表示は《故人模倣プログラム》だった。

初日の夜、夕歌は端末に訊いた。

「あなたは誰?」

清弦はむっとした。

「お前の父親だ」

「法律では違うって」

「法律に、お前を育てた覚えはない」

夕歌は笑った。父も笑った。

彼女は相続で得た金の一部を使い、母の留守番電話を小さな食卓型の記憶装置へ入れた。夕食になると、母の「冷蔵庫に煮物があるよ」が流れ、父が「また同じだ」と文句を言う。

夕歌は、父を一度死亡させた。

その日から初めて、財産でも制度でもなく、自分の意思で父と暮らし始めた。