片仮名の母音
久世沙羅が働く古いゲストハウスの談話室には、旅人が置いていった日本語の小説が並んでいる。その一冊に、奇妙な片仮名が書き込まれ始めた。
「おかえり」の上に〈オ・ア・エ・イ〉。「ありがとう」には〈ア・イ・ア・オー〉。読み仮名ではなく、口の形を示す母音だけだった。
沙羅は邵琳の教育係だった。敬語の表を渡し、間違いを直すことはできても、笑われた後の沈黙をどう扱えばいいか分からなかった。片瀬は「本人が話したくなるまで待とう」と言い、桐生は談話室で発声練習をしながら何も聞いていない顔をしていた。書き込みが増えるにつれ、邵琳は本を指でなぞり、閉店後に小さな声を取り戻していった。
書いた可能性があるのは、日本語を勉強中の台湾人スタッフ・邵琳、朗読劇で長期滞在する桐生、談話室を管理する片瀬の三人。
手掛かりは三つ。書き込みは台詞にしかない。母音の区切り方は舞台の発声練習と同じ。そして鉛筆の溝には、桐生が本番で使う銀色の舞台粉がわずかに残っていた。
片瀬の字はもっと太く、邵琳は書き込みを見つけるたび写真を撮っていた。桐生は疑われる前から、問題の本を高い棚へ戻そうとした。沙羅が「教えるのは仕事でしょう」と言うと、彼は「正しさだけなら」と苦く笑った。
沙羅が問い詰めると、桐生は洗濯物の陰で頭を下げた。
邵琳は夜ごと、宿泊客へ「おかえりなさい」と言う練習をしていた。ある客に発音を笑われてから、人前で長い挨拶を避けるようになったという。
「教えましょうかと言えば、欠点を指摘したことになる。だから、本に練習だけ置きました」
桐生自身、若い頃に地方の訛りを笑う役を面白がって演じ、共演者を傷つけたことがあった。今でも謝れないままらしい。
沙羅は邵琳を談話室へ呼んだ。秘密を知った彼女は怒る代わりに、本を胸へ抱えた。
「これ、センセイ、だれ?」
桐生が手を上げると、邵琳は一度だけ深呼吸した。
「おかえりなさい」
母音がゆっくり部屋に並び、旅人たちが自然に「ただいま」と返した。
片瀬が淹れた烏龍茶を、三人で小さな杯に分ける。邵琳は一口飲んでから、桐生へ笑った。
「つぎは、ホンに書かないで、口で教えて」
桐生は舞台より深く頭を下げた。
「はい。口で謝ります」