猫が眠る振り子

 安達小春は、死んだ猫の最期を思い出せなくなった。

 十七年一緒だった麦は、半年前、小春の膝で息を引き取った。そのはずなのに、最近は病院の白い壁ばかり浮かび、麦の顔も鳴き声も薄れている。忘れることが裏切りに思えた。写真を見返す回数は増えたのに、画面の麦は知らない家の猫のように平たくなる。小春は毎晩、謝りながら動画を最初から再生し、眠れないまま朝を迎えていた。

 三毛門環の工房には、時計より猫用ベッドの方が多かった。本人は黒いシャツの襟に、金色の鈴を一つ付けている。歩いても鳴らない、不思議な鈴だった。

「起こすほどではない」

 環は麦の首輪に付いていた、小さな時計型迷子札を受け取った。

「でも、忘れたくないんです」

「忘れているのは最期だけ?」

 訊かれて、小春は答えられなかった。十七年分を思い出そうとするほど、最後の一日が蓋になる。

 環は猫用ベッドを一つ、小春の足元へ押した。「荷物を置く場所」と言うが、柔らかな縁に手を乗せると、強ばっていた肩が少し下がった。環はそれを確かめてから、迷子札を振り子時計の下へ吊るした。振り子が左右へ動くたび、記憶が一枚ずつ現れる。

 初めて家へ来た麦。段ボール箱から耳だけを出し、家中の匂いを慎重に嗅いだ麦。洗濯籠で眠る麦。失恋した夜、泣く小春の髪を前足で踏んだ麦。冬の布団にもぐり込み、鼻先だけを出す麦。

「最期は?」

「起こすほどではない」

 環は同じ言葉を繰り返し、病院の記憶には触れなかった。代わりに迷子札の内側から、かすかな振動を取り出す。

 膝の上で眠るときの、喉の音だった。

 小春の掌で、丸い金属が温かく震える。顔は見えない。それでも重さ、毛の匂い、爪が服に引っかかる感触まで戻ってきた。

「これで終わりですか」

「記憶は遺影じゃない。全部を正面に向けなくていい」

 環は金の鈴を襟から外し、迷子札の隣へ結んだ。今度は小さく鳴った。

「大切なものじゃ?」

「眠れない客を見送るための鈴」

 店を出ると、小春の鞄の中で二つの金属が触れた。ちりん、と軽い音がする。

 麦を起こした音ではなかった。長い昼寝から起きた小春を、これからの季節へ送り出す音だった。