白い杖と十七段

浜野静香は、エレベーター前で立ち止まる女性の腕をつかんだ。白い杖と大きなキャリーケースを持っていたから、考えるより先に手が出た。

「腕じゃなくて、言葉でお願いします」

女性は静香の手を外した。エレベーターは点検中で、迂回先は十七段の階段だった。

静香は効率を優先する。困っている人を見たら、早く動かすことが親切だと思っていた。女性は、勝手に動かされるくらいなら時間がかかるほうがいいと言う。

「では、何をすればいいですか」

「ケースを持ってください。最初と最後の段だけ教えて。右側に立たないで」

頼み方が細かく、静香は少しむっとした。それでもキャリーケースを持ち上げる。見た目より重い。

「一段目です」

女性は杖で縁を確かめ、手すりをつかんだ。静香が二段先へ進みそうになると、「速いです」と止められる。五段目では、杖の先が濡れた床を打ち、今度は女性が「滑ります」と静香へ告げた。静香はケースを一度置き、自分の靴底を確かめた。助ける側と助けられる側が、段ごとに固定されているわけではなかった。

ケースの中で瓶らしいものが鳴る。静香が持ち替える前に、女性は「左へ傾けないで」と言う。静香は理由を聞かず、右手へ重心を移した。九段目で発車ベルが鳴った。

「間に合いますか」

「走れば」

「私は走りません」

静香なら荷物ごと抱えてでも乗るところだった。けれど抱える許可はない。彼女はケースを持ったまま、女性と同じ速さで十段目へ下りた。

十六段目で電車のドアが閉まる。十七段目に着くと、女性は杖を床へ二度当てた。

「最後ですか」

「最後です」

次の電車は十二分後だった。静香はケースをベンチ脇へ置き、持ち手が女性の右手へ触れる位置を言葉で伝えた。女性は自分でそれを確かめてから座る。静香は次から先に尋ねると言わなかった。約束にすると、自分が善人になったようで居心地が悪い。ただ、今度は勝手に腕へ触れなかった。時刻を伝えると、女性は端末へ入力した。女性は礼を言い、静香のやり方を褒めはしなかった。静香も、細かな指示が好きになったわけではない。

ただ二人は、一本の電車より一段ずつ下りることを選んだ。

十七まで数えた声だけが、同じ速さだった。