白い杯の赤い酒

 宇賀神匠は、真紅の酒が入った杯を掴んだ。

 向かいの薬剤師は、白く濁った液体の杯を抱え、安堵の笑みを浮かべる。

《白い杯には水、赤い杯には毒。水を飲んだ者が勝者となる》

 二つとも器は透明に見えた。片方に赤い酒、もう片方に白い乳状液。誰でも、液体の色を杯の色だと受け取る。

 匠は赤い液体を一気に飲んだ。酸味の強い葡萄ジュースだった。

 薬剤師も白い液体を口へ運ぶ。直後、喉を押さえた。

「なぜ……赤が毒のはず……」

 薬剤師は専門知識に頼り、白濁は解毒剤、赤色は警告色だと決めつけていた。だが主催者が狙ったのは知識不足ではない。知識のある者ほど、意味のある色だと信じてしまう癖だった。

『勝者、宇賀神匠』

 匠は自分の杯を逆さにし、底を見せた。高台の裏に、白い釉薬で小さな円が塗られている。薬剤師の杯の裏には赤い円。

「ルールは赤い『液体』と言ってない。赤い杯、白い杯だ」

 会場の照明は真上からしか当たらず、杯の底面は卓の黒い布へ伏せられていた。持ち上げなければ色は見えない。だが薬剤師は、匠が赤い酒へ手を伸ばした瞬間、勝ったと思って白を飲んだ。

 匠も赤い酒の匂いに一瞬ひるんだ。知識がなくても警告色は怖い。それでも、恐怖より名詞と形容詞の結びつきを優先した。

「そんな細工、いつ見た」

「入場した時。係員が杯を置く前、底の色が袖口に映った」

 倒れた薬剤師の白い液体は、床で泡を立てている。匠は勝者の扉へ向かいながら、監視窓の向こうへ言った。

「色は、ものに付く。言葉は、勝手に中身へ移らない」

 薬剤師は倒れる寸前、自分の杯を裏返した。赤い円を見て、ようやく苦笑する。専門家としてではなく、ただ文章を読む人間であれば助かった。その事実のほうが、毒より苦かったのだろう。

 返事はない。

 ただ照明が横から点き、初めて二つの杯の底がはっきり赤と白に輝いた。倒れた男の眼鏡にも、その二色が遅れて映る。

 それはあまりにも残酷で遅すぎる最後の答え合わせだった。