白猫ととうもろこしのスープ

 スープスタンド「匙の庭」は、駅前の路地にある。

 入口の植木鉢のあいだには、白猫の雪平がよく座っていた。飼い猫ではない。向かいの花屋の猫だが、昼になると決まってこちらへ来て、窓越しに客の食事を監督する。

 野々宮伊織は、三日続けて一番奥の席を選んだ。

 大学院を辞めると教授へ伝えたばかりだった。研究が嫌いになったわけではない。好きだったからこそ、結果が出ない自分を毎日見続けることに疲れた。

 友人には「もったいない」と言われ、家族には「少し休めば」と言われた。どちらも優しく、どちらにも返事ができなかった。

「今日は、とうもろこしです」

 店主の澄江が、黄色いポタージュを置いた。表面に生クリームが細い渦を描き、炒った粒が三つ浮かんでいる。

「噛まなくても食べられそう」

「噛むものも残してますよ」

 澄江は粒を指した。

 伊織が匙を入れると、とろりとしたスープが縁へ寄った。口に運べば、とうもろこしの甘さのあとに、玉葱と少しの塩気が来る。温度がゆっくり喉を下り、空っぽだと思っていた腹の輪郭を教えた。

 窓の外では、雪平が前足を舐めている。

「あの猫、毎日ここに来ますね」

「花屋では愛想が悪いんですって」

「ここでは?」

「愛想は悪いままです。でも来ます」

 伊織は笑った。

「役に立たなくても、来ていいんでしょうか」

「席代を払ってくれれば」

 澄江は真顔で言い、それから小さく目を細めた。

「雪平は払わないけどね」

 研究室にいた頃、伊織は成果の出ない一日を「ゼロ」と呼んでいた。読んだ論文も、洗った器具も、後輩へ貸した傘も、数字にならなければなかったことにしていた。

 澄江が空いた皿を下げる。

「今日のスープ、どうでした?」

「甘かったです。粒が少し硬い」

「じゃあ、作った日はゼロじゃないね」

 その言葉は励ましではなく、ただの確認に聞こえた。

 店を出ると、雪平が立ち上がり、伊織の足首へ一度だけ体を擦りつけた。すぐに花屋へ戻っていく。

 伊織は携帯を開き、教授へ〈しばらく休んでから、退学の手続きを考え直してもいいですか〉と送った。戻るとも、戻らないとも決めていない。

 唇の端にはまだ、とうもろこしの甘い香りが残っていた。白い尻尾が路地の角で消えるまで、伊織はそこに立っていた。