皺は伸ばしておきました
洗濯棟の侍女エルカは、仕上げた衣装を返すたび淡々と言った。
王妃の戴冠式を翌日に控え、棟内には絹とレースが山を作っていた。エルカは湯を沸かし、糊を調え、百枚の襟飾りを黙々と仕上げる。針子頭のグレーテでさえ、彼女が休む姿を見たことがない。
最後に運び込まれたのは、王妃の純白の礼装だった。
グレーテが袖へ触れた瞬間、縫い目が脈打った。
黒い糸が布の内側から這い出し、蛇のように彼女の指へ巻きつく。礼装そのものへ潜んだ呪殺者《喪布》だ。明日、王妃が袖を通せば全身を締め上げ、心臓まで縫い閉じる。
「離れて!」
グレーテが叫ぶより先に、エルカは熱い鏝を礼装へ置いた。
じゅっ、と短い音がする。
次の瞬間、黒糸は消えていた。
焦げ跡も、破れもない。礼装は最初から何の呪いもなかったように、台の上で白く輝いている。
ただし、磨かれた鏝の背には真実が映った。
エルカの指が布を一撫ですると、無数の縫い目が空中へ浮かび上がった。彼女は鏝の先でたった一本を押さえる。その一本こそ、すべての呪いを束ねる喪布の命綱だった。熱を伝えられた呪殺者は布の裏で人の姿を現し、声も上げられぬまま灰へほどけた。
糸一本から敵の命を辿る技。
帝国の旗を縫い目から崩し、戦争を終わらせた暗殺者《解き手》の秘術だった。
エルカは灰を糊桶へ落とした。浄化石が淡く光り、黒は無色になる。切れた命綱の代わりに白糸を通し、針を一往復。仕上げ布で鏝を拭えば、敵がいた証拠は湯気と一緒に消えた。
「あなた……解き手なの?」
グレーテは震える声で問う。
エルカは礼装の肩を整えた。
「私は洗濯棟付きの侍女です」
「でも今、布の中に人が――」
「疲れていらっしゃるのでしょう。式前ですから」
そう言って、彼女は礼装を灯りへ透かす。黒い糸は一本もない。王妃の命を奪うはずだった罠は、誰にも知られず完全に消えていた。
翌朝、受け取りに来た女官へ、エルカは仕上がった礼装を差し出した。
そして、最初と同じ平凡な言葉を過去形にして告げた。
「皺は伸ばしておきました」