眠らない緊急回線

通信会社の夜間作業室で、立石紬希は切替開始のボタンを押さなかった。

翌日から産休に入る芝垣叶恵が、最後に引き継ぐ基幹回線の保守だった。午前一時から十五分、古い装置を新しい経路へ移す。影響範囲は社内の検証回線だけ、と作業票にはある。

「一時十分までに終われば、病院側には出ない」

叶恵の説明を聞きながら、紬希は監視画面の端に残る細い紫色の線を見つけた。検証回線のはずなのに、接続先が市立病院の代表番号になっている。昨年の水害で本線が落ちた際、緊急用に迂回させ、その設定だけ戻されていなかった。

責任者は「今夜を逃すと一か月延期だ」と切替を促した。紬希は作業を中止し、通話試験を行った。紫色の線を外すと、救急外来への着信が途切れた。作業票が正しければ、深夜の十五分間、救急の電話を検証回線ごと落とすところだった。

紬希は順番を変えた。先に病院の迂回先を別装置へ移し、実際の着信を二回確認してから、古い装置を切り離す。若手の作業員には「作業票を信じない、じゃない。現物と一致したところまでが確認だよ」と言い、接続先を一緒に読み上げた。

病院の交換台へ試験電話を入れると、夜勤の職員がすぐ応答した。「今、救急車が一台向かっています」と聞き、作業室の誰も延期を口にしなくなった。紬希は新旧の経路を画面に重ね、紫色の線が消えたことを叶恵と二人で指差し確認し、作業票にも実際の経路を描き直した。

切替は十二分遅れたが、一本の電話も失われなかった。

叶恵は自分の私物スマートフォンを机へ置いた。障害通知が百件以上残っている。

「夜はこれで見てた。会社端末、台数が足りないから」

責任者は紬希へ、明日から代理リーダーとして同じ対応を求めた。肩書は仮、休日待機は手当なしだった。

紬希は切替完了報告に、共有端末二台と三人輪番の条件を追記した。数分後、正式な代理任命と待機手当を記した修正版が届く。

彼女は叶恵の私物端末を返し、その任命だけを承諾した。